リンク元に戻る

終戦時の余話

1、巣鴨での苦悩
 巣鴨に収監され期友たちは勇気を持って回想しているが、その精神的、肉体的な苦労は他人では忖度できない。
服部正範
本中貞夫
伊号第8潜水艦のインド洋での撃沈商戦乗員処刑による
餅田 実 青島根拠地隊・中国(青島)での部下の行動の責任をとり、現地で戦犯として服役後、巣鴨に移る。その責任の取り方は見事で中国法廷でも賞賛されたと聞く

2. 国内での継戦行動

 (1) 佐世保で継戦行動した期友
  終戦により、佐世保近辺の造船所で偽装中の小型潜水艦艦長(艤装委員長、同予定者)のクラスの諸兄が、血気にはやり、機銃、小銃で武装しトラックで山籠しようとしたが途中で逮捕され、佐世保刑務所に収監され「結党罪」として判決されたが、執行猶予のために放免された。参加した72期生から今日佐世保競輪場になっている旧刑務所での生活を聞いたようなことがある。

 (2) 厚木航空隊での反乱余話
@ 横須賀特別陸戦隊分隊長若松三郎の回想によると、彼が横須賀大津海岸で警備中に終戦を迎えた。米軍の進駐を迎えるため準 備中、厚木航空隊に不穏な空気があるとのことで厚木に前進を命ぜられた。 
 
 終戦に納得できない気分であった我々青年将校として極めて複雑な気分であったが、幸い高松宮の御説得により無事事件解決して横須賀に帰ることができた。

A 厚木基地第302航空隊分隊長・寺村純郎は、厚木航空隊(小園部隊)の反乱の渦中に10日間過ごした。武装解除の命令に反抗して陸軍の狭山飛行場に飛んでいった15機のゼロ戦を呼び戻すため8月22日に厚木に行き連れて帰ったのが海軍での最後の飛行となっ たと回想する。

(3) 終戦でウラジオストック港外に初陣
  『伊202潜水艦史』によると、伊201潜、伊202潜(艦長今井賢二、水雷長大賀良平(元海上幕僚長)、機関長コレス今田実) と呂500潜が舞鶴から「帽振れ」の歓声に送られ、ウラジオストック港沖に初陣し、出撃してくるソ連艦艇を撃沈するというものであった。初陣の動機、行動の概要、上級司令部の説得、帰投等について詳述されているが、今田君によると潜航中燃料パイプの故障で帰還したが、機関学校出身者の会合で良く話が出るという。

(4) 大和基地で山籠計画
 青井完吉君の回想によると、搭乗員が吉野山中に山籠を計画したが纏まらなかったという。

(6復員輸送(詳細は多岐にわたるので省略)
 復員輸送については紙面の関係で割愛せざるを得ないが、いずれにしても、水上艦艇に配乗していた者は充員召集で、または自らの志願で参加した期友も多い。
 海軍は昭和20年11月30日解散し、第二復員省、復員庁に格下げされ、身分も第二復員官、第二復員事務官、復員事務官と変り、軍艦は特別輸送艦と名称を変更。

  いわゆる復員船は、残存航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、海防艦等及び一般商船が復員業務に貢献した。兵装を撤去、船体舷側に日の丸を付け、後部に仮説の厠などを作り一人でも多く収容できるようにした。
 
 参加した者の多くは海軍の敗戦の贖罪と感じて、広大な大陸、広い太平洋に散在していた軍人、軍属、同胞を敗戦で焦土と化した祖国に帰還させたことは永久に語り継がれることであろう。

 写真は、復員艦「桐」の士官室の皆さん。尾道の造船所で武装を撤去し、
士官の階級章を外した哀れな姿である。お世話になった尾道市久保町の宮野堅一医院宅にて(昭和21年1月25日撮影)。

 ・前列左から
  航海長
中村元一(72期)、水雷長佐藤清夫(71期)、 艦長川畑誠(62期)  旧機関長石村さん(機・50期)、掌機長(大沢少尉)
 ・2列目左から
  機械長(少尉)、先任将校砲術長
竹内芳夫(69期)、機関長福島利一(少佐)  軍医長(渋谷軍医中尉)
 ・後列左から
  電機長宗像喜夫(機曹長)、缶長(機曹長) 中村甲板士官(兵曹長),
上村民夫通信士(73期)
  
八木豊主計長(経・34期)、平井禮雄機関長付(機・55期) 渋谷航海士(生徒)
 
上に戻る