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第3  3号生徒と2号生徒時代

 1、3号生徒の時代 

@ 3号時代の前半
15年8月7日、1号生徒となる。我々597名が第2学年(期間10ヵ月)に進級すると同時に「3号生徒」と呼ばれるようになるが、新入生が来るまでの約4ヵ月間、最下級生の地位に変わりがなかった。しかし、69期は「お嬢さんクラス」と自称するだけあって、一部のもを除き、猛威を振るわなかったように思う。
 
 この時期、呉海軍工廠で戦艦「大和」が進水、昭和天皇が臨御し兵学校に行幸される予定であったが、構内に赤痢が発生取り止めとなったことを鮮明に記憶している。

A 3号時代の後半
 15年11月16日、第72期を迎えるために分隊編成換えが行なわれ48個分隊となり、改修なった明治期建造の赤煉瓦生徒館(第2生徒館)が使用された。

 15年12月1日に第72期が入校して、陸軍で云うならば2年兵となり今までの生活が一変する。新入生に対しては個人的な日常生活を指導するための「対番」制度で一対一で手取り足とっての指導、世話を担当することになり、精神的にも肉体的にもリラックスできた。

 文人肌の新見校長が離任し、4月12日に生粋の指揮官タイプ、人望の厚かった草鹿任一中将が着任され、校内の空気が一変する、新見校長の訓示は実に長く、記録当番は泣かされたが、新校長は簡単明瞭で大歓迎された。

 5月1日に69期の1号が卒業、70期が11号となり、我々も第3学年に進級した。健康を損ねて転地中の者、学業不良者がでて、進級のたびに相当数が上から落ちてくるもの、下に落ちるものがあり、584名が進級した。

 2, 2号生徒の時代 

 2号生徒の時代(昭和16年7月から11月の間)における生徒館生活は、当時、海軍省後援、軍務局第四課と海軍兵學校の指導で製作された広報映画『勝利の基礎』が当時の生徒隊生活の全容を余すところ無く映像化し、一般に上映された。

 戦後そのフィルムが米国から返還されVTRとして復刻されたが、映像は精度が落ち画面が極めて暗かったが,
平成18年8月、当地のケーブルテレビで「太平洋戦争と日本映画」の再放送があり、その中にこの映画があった。こちらは比較的鮮明で、当事者としては鮮明な記憶がよみがえる。なお、ひきつづいて米国の戦記映場が続々再放送され、書物で知った戦闘場面が営造として見る人の感動を呼ぶものである。そのリストを「終章」で照会する。

 ここで読者にお見せできないが、国会図書館に保管されている『昭和17年映画旬報』第47号の「文化映画紹介」の解説を入手したので、之により2号生徒の時代の生活を再現したい(挿入写真は真継不二夫氏の写真集『海軍兵学校」から借用した)。

 この年の5月頃、皐月が咲き競う生徒隊生活を見学した作家林芙美子氏、木村毅氏などの古い見学記があり、「終章」で紹介してある。

 3, 海軍省広報・映画『勝利の基礎(いしずえ)』で見る江田島生活の全貌 

此の一篇を大東亜戦争に参加し米英打倒に邁進、赫々たる戦果を挙げつつある我が海軍将兵に捧ぐ


1、大日本帝国海の生命線を護って立つ未来の提督が揺籃の地江田島
 3年6か月、若き生徒達は朝夕燦然たる菊花の御紋章を仰ぎつつ、この江田島に寝食を忘れ勉學と訓練にいそしむのである。思へば明治2年東京に海軍操練所が創設されてより70余年、雄々しく巣立った幾千の士官達も彼等と同じく此處兵學校に於いて厳格なる修錬の道を経、遂に帝国海軍を今日あらしめたのだ。


2、教育参考館

此處には幾多の戦争、事變等に参加し名譽の英靈となった先達が、血と汗で築いた帝国海軍の光輝ある歴史の尊い遺跡が納められている。『江田島』の若き士官は、この光榮ある伝統精神を継承し、一且之を發揚して以て帝国海軍を益々光輝あらしめるべく朝に夕に修練する。3年の修練、それは激しい苦闘の毎日ではあらうけれども、これこそ今や7つの海を支配せんとする帝国海軍の誇る伝統の記録であり、勝利への基礎に他ならない。

3、生徒は入校の日から生徒隊に編入される
 生徒隊は數十個の分隊に分れ各學年の生徒若干名を以て編成される。分隊は常に訓練の基調であり、分隊員は自習室、寝室等全て起居を同じくし、訓練の他競技は各分隊単位にて行はれ、一方學術教育のみは學年別に、1ケ學年を數個班に分ち將来海軍兵科士官として必須なる軍事學、普通學の修得に邁進する。



4、文武兼備は古来我国武人の目標

海の武人海軍兵學校生徒もその目標に向かつて精進する。見敵必殺の精神は、実にこの一本の竹刀の先から育まれて来たものである。不撓不屈の精神は、一身を犠牲にして敵中に敢然と跳り込み、全力を舉げて敵の棒を崩す棒倒しの鋭い氣迫の中にひそんでゐる。



5、16時40分・海の面に夕暮の光が反射し始める頃


1日の汗と埃とを浴槽の中で洗い落とす。

(管理人注)期友の間の裸の付き合いは、
この大浴場からはじまり、今日まで続いている




6、夜の自習室・五省自習終了前の5分前
 抑へ切れぬ感激に頬を紅潮させた一人の生徒が軍人の5ケ条を拝唱

 ・至誠に悖るなかりしか
 ・言行に恥ずるなかりしか
 ・氣力に欠くるなかりしか
 ・努力に憾みなかりしか
 ・不精に亘るなかりしか


7、この五省を鮮かに暗誦し今日1日の言行を反省した後始めて彼等は床に就く巡検までの語らい



巡検までの語らいそして就寝のラッパ、週番生徒の巡検で一日が終わる


8、海上を赤く染めて朝が来る、修練の1日が明けた


(管理人注)

起床ラッパが生徒館に鳴り響く、
起床動作はさながら戦場である。
ベッドの片付け、整頓が悪いと江田島地震が襲う。



洗面、用便。煉兵場に急ぐ。朝の号令練習、総員体操が待っている



体操を終え漸くやく朝食

 左・大食堂
 右上・朝食 パンと味噌汁
 右下、夕食


9、高々と軍艦旗が掲揚される
真継氏は「高々と軍艦旗が掲揚される。彼等の胸の中に海に巣立つつわものの感激があふれる」と記している。

ひと時の休憩を終え、続く分隊点検を受けるため、その日の課業の準備を整えたバグを小脇に抱え、散々伍々連れ立って生徒館前の煉兵場を爽やかな気持ちで散歩し、分隊監事の分隊点検を待つ。分隊点検の位置で千代田艦橋の方向に向き、マストに掲揚される軍艦旗に舉手の禮をする

分隊点検  課業整列

勇壮な進軍ラッパの吹奏で行進・講堂に移動

 

 10、普通学、軍事学の授業

(管理人注)
 普通学講堂での授業は4号にとっては生き抜きである。難しい微分積分、熱力学、英会話、哲学等々は馬耳東風、仮眠をとる。文官の教官も大目に見てくれる。軍事学は本業となるので、興味津々である


 左から、水雷術講堂、運用術講堂、通信術講堂(モールス信号の実習)




山高帽姿の文官教授


11、楽しいボートレースの時間が来た。
管理人注・真継氏はこう言ってるが実情はさにあらず過酷そのものである)
 


分隊の名誉をのせて力漕8浬、身も魂も1枚のオールに集中して、たゞ勝たんが為め漕ぐ。必勝の信念は知らず知らずの間に彼等の胸中に植え付けられてゆく

 この写真集には、厳島の弥山登山競技のことが掲載されていない。秋の宮島の最高峰(525米)を分隊単位で競争する。最後尾の生徒の登攀時間で成績が決まるので1号の督戦がすごく大変であったる。その昔は宮島遠漕を終わってそのまま登山競技に入いったと聞く。実施時期は宮島の紅葉の時期であるから,真継氏は知らない。知っていたら、何とか書かれたろうか。ここで頂いた豚汁ともみじ饅頭の味が今でも口の中に残っている。


12、飛行場
銀翼を海の太陽に輝かせ乍ら整然と編隊の飛行機が飛翔する。


13、三位一體の教育

 軍人精神の發揮を目標としたる精神教育。帝国軍人たるの特性を養い軍隊としての修練を積む日常勤務、體力の練磨。この三位一體、武徳の要道に邁進し、国家の禎幹たるべき人格完成を目標としての3年6ヵ月間の奮闘努力こそ、世界に誇る江田島健児の頑張りの記録である。


14、その頑張りの記録を母校に残して海軍兵學校を去る日は遂に来た
 畏くも畏き邊りより御差遣の高松宮殿下の臺臨を仰ぎ奉り、茲に第70期生徒卒業式は光榮と感激の裡に舉行される。見送りの後輩生徒に激励されながら海軍少尉候補生は校門を出て行く。     

弾盡き銃折れなば、刀剣をもつて戦うべし、刀剣もまた用うべからざるに至らば腕力を持って戦うべし、
     腕力用うべからざるに至らば則ち精神氣魄を持って戦うべし!
    負けるを知らぬ海のつわもの逹は、不敵の足どりで海へ征く、
今や彼等の行く手には恐るべき海洋は一つとてないのだ帝国海軍に榮光あれ、海のつわものに幸あれ! 



(管理人注記)
 
1この70期生の卒業は急に繰り上げられて11月15日になったが、彼等を対米開戦に参加させるためであったという。式が終わるやいなや直ちに表桟橋から戦艦「榛名」で柱島艦隊泊地に行き聯合艦隊各艦に配乗した者が多い。既に配備に付くため同泊地を離れて出撃した艦船に配乗の予定者は広島駅から特急列車で横須賀に行き出撃直前の艦に深夜着任し、更に先航して行った艦船には金華山沖で洋上移乗の離れ業を演じたと聞く。

 
そして彼らが始めて母校を訪問したときは、ミッドウエー海戦で惨敗した艦艇が呉に帰ってきて来島したときであった。これによってわれわれは戦局の危機を実感し、校長に早く卒業させてくれないと戦争に間に合わなくなると請願したのはこの時期であった
 
2この当時、戦意高揚のため有名文士の兵学校参観が行なわれた。文芸評論家の木村毅氏もその一人である。内容はこの映画とほぼ同じであるが、国会図書館の書庫に保管の講談倶楽部掲載の「海軍魂ここにあり・海軍兵学校参観記を掘り起こした。この項の最終末の[有名作家七氏の兵学校訪問記]に掲載してある

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