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「島隠れゆく艨艟」海軍兵学校卒業式参観記−
江戸川乱歩(昭和171124日)
(註・推理作家・「新青年」第1号・昭和18年1月号に掲載)

 昭和171114日の江田島海軍兵学校卒業式と卒業生船出の行事には豫期以上の豊かな感動を含んでゐた。あの日の式場の録音放送は「聴いてゐて涙がこぼれた」と人々は云ったが、式場のほかにも幾多の感動があった。帝国海軍に「海軍美」あり、当日の行事にはその海軍美の内の多くのものが、一巻の絵巻となつて、或は交響楽となつて、私達の前にくりひろげられたのである。

 卒業式場の感動については、新聞記事とラジオ放送によって人の知るところである。私達は式場内の与へられた位置に、30分間直立不動の姿勢を保って、正面壇上、御差遣宮殿下の聖なる御姿を仰ぎ、軍楽隊の奏する「誉の曲」の鳴り渡る中を、あるひは卒業証書を抱へ、あるひは恩賜の短剣を高く捧げて、殿下の御前に最敬礼する卒業生達の姿を見守りつづけたのである。
 式後生徒館の廊下で、同行の摂津茂和君は、早くも聴き覺えた
<「誉の曲」を小声に口ずさみながら、その楽譜を手帳に書きとめてゐた。そして、あの曲を聴き卒業生の姿を見てゐると、涙が出て仕方がなかつたと告白した。

  今にして思ヘば、この日南方洋上に於ては、第3次ソロモン海戦が戦はれてゐたのである。12日から14日にかけて敵艦船20数隻をを屠ったが、我も亦戦艦1隻を失ひ1隻を大破された銘記すべき日であった。将来帝国海軍を雙肩に担うべき健兒達の晴れの船出と、この銘記すべき大海戦と、奇しくも日を同じうしてゐたのである。

 卒業生は、式後室に帰って生徒服を眺ぎ、±官候補生の服装に着更へて、御差遺宮殿下を奉送した。

 金モールの徽章美々しい軍帽、ピッタリ身についた非常に短い上衣、腰部の線をそのまゝ現はしてスラリと長い黒のズボン、金色の装飾金具美しい短剣、真白な手袋、いづれも212才、まだ紅顔の少年候補生達である。遠く全国から愛兒の卒業式に参列した父母の目には、この晴れの姿がどのやうに映つたことであらう。

 13時、生徒館大食堂に立食の宴が開かれた。メイン・テーブルには此度卒業の久邇宮徳彦殿下、嘗っての兵学校長及川古志郎大將、現校長井上成美中将、其他海軍高官、両脇のテープルには来賓の陸、海軍武官、文官、私達作家もその一隅に列なる。

 食堂全面には生徒用の長い食卓が10数の縦列を作り、卒業生とその父母とが向ひ合つで立ち、間間に教官が混るといふ和やかな配置、卓上には紅白の色どり美しく山と積まれた御馳走、1人1合づゝの冷酒、卒業生の大多数は生れて初めて口にする酒盃である。母は我が子に酌し、子は父に酌をする。教官は昨日までの生徒に酌をする。窓を隔てゝ響き來る軍楽隊の奏楽、嚠喨たる談笑の声。併しながら、これは平時のように練習艦に乗って楽しい船出をするのではない。

   この宴が終れば直ちに、沖に停泊する軍艦に乗組んで、所定の訓練期間の後、やがて前線の人となるのである。生きて再び相見ゆる時ありや無しや。祝宴を兼ねし別離の宴である。祝酒に顔赤らめた少尉候補生達は流石に女々しいそぶりは露ほども見せなかつたが、父や母は思ひなしか、言葉少なであった。

   宴終れば、卒業生達は各自の属する自習室に戻って、下級生と別離の言葉をかはす順序である。宴に列することを許されなかつた下級生達は、今こそ我等の番と、自習室前の廊下に向ひ合って2列に整列し、緊張した面持で、去り行く兄達の最後の言葉を待ち受けてゐた。

 やがて廊下の彼方より響き来る多勢の靴音、胸とどろかせて待つ間もなく、祝酒に上氣した新装の.候補生達が次から次と現はれ、向ひ合った下級生の間を「がんばるんだゾ」「しっかりやれょ」などと叱るやうな短い言葉を連呼しつゝ通り過ぎる。下級生達は直立の姿勢のまゝ無言である。物言はねども無量の感情が、緊張した頬にまざまざと窺はれる。卒業生は自習室を共にした同じ分隊の生徒の前に來ると足並がにぶる。

 親しい下級生の前に立上って、或は手を握り、或は肩を抱き、或は又相手の胸を突き飛ばすやうにして、簡単な言業を投げかけ、そのまゝ行き過ぎる。これが年少武人の訣別である。手を握り肩を抱かれた者は勿論、突き飛ばされた者も、さうして卒業生と目が合った瞬間、その表情がみるみる歪んで行く。サッと頬に血が上り、両眼はうるみ、やがて涙にふくれ上り、それを隠さぅとして手の掌を持って行く間に、可憐な紅顔を伝ひ落ちるのである。1人ならず3人4人、私は泣き顔を隠そうとして困惑してゐる少年達を見た。断じて女々しいのではない。この友情の涙なくして何の武人であう。私は校舎の中庭に佇立してこの情景に見とれ、日本海軍の頼もしさをしみじみと感じた。そして、私自身の目も、いつしか熱くうるんでゐたのである

  卒業生は下級生との簡単卒直な決別を終ると、校内八方園神社に參拜、いよいよ住みなれた校舎をあとにして、校庭の桟橋に急ぐ。父母と下級生達はその沿道に堵列してこれを見送り、あとを追って海辺に集る。卒業生は桟橋から十幾艘の艦載水雷艇或は内火艇に分乗する。艇上から打振る母校の風景は、いまさらに美しいのである。桟橋より遥かに大講堂に至る坦々たる白砂の大道、その左右には廣い芝生の練兵場、絵のやうな松並木、右方には長く連なる2棟の大生徒館、手前のは白亜の層楼、向ふのは御影石で縁取ったる瀟洒たる煉瓦造り、思い出多い数室も、自習室も、食堂も、寝室も、皆々の壁に包まれて、再び見るすべもないのである。

 建物の屋根のかなたには優美な島山の幾曲線、1段高く聾ゆるは在校中何度となく登攀した懐しの古鷹山である。それらの風景を背にして、広い桟橋の上には父母達が黒山を為し群り、桟橋横の長い岸辺には全校の下級生が幾重かの横隊を作って整列し、さらに左手の小桟橋には数艘の汽艇が繋留され、その甲板にも父母達の遠い姿が群がつてゐる。

 やがて、桟橋の一隅より嚠喨として起こる「蛍の光」の軍楽、卒業生の分乗した小艇は次々と桟橋を離れて行く。艇上の卒業生も、海岸の在校生も、一斉に軍帽を打振り、母達の手に手にひらめくハンカチ、10余艘の小艇は列をなして沖の軍艦に行進する。奏楽の響、「萬歳」の嵐、海原をどよもす壮観である。と見れば、先頭の小艇が進路を変へた。続いていて1艘又1艘、全艇再び海岸に戻つて来るのである。岸辺に帽子を振りつゞける下級生の、懐しい顔が見分けられる近さまで。過ぎ去っては又立戻り、円を描いて去来し、低徊するに忍びざる風情である。濃かなる武人の情緒、宛てとして海上一大演劇を観るの思ひであつた。

  それを暫くにして、小艇群はいよいよ沖の軍艦へと向ふ。岸辺でも、艇上でも帽子はいつまでも振りつゞけられてゐる。やがてお互の顔が白い一点となり、それも見分けられずなる頃、小艇は巨艦の舷に到着、艇上の人となつた卒業生達は、豆のやうな姿を甲板に並べて、やはりこちらを見守ってゐる。15時、軍艦は錨を巻き、いづこかに向って辷べるように動きはじめる。この時、岸辺の在校生は、さらにも尽きぬ名残を惜んで、20余艘のカッターに打乗り、カ漕、巨艦の舷側に近づき、櫂を立てゝその出港を見送るのであった。

  私達は卒業生の父母達を乗せた汽艇の1艘に便乗した。軍艦のあとを慕いながら、安藝の宮島に渡航する船である。くろがねの巨城は動くとも見えぬ間に、いつしか狭い水門を通過し、瀬戸内海の美しい島々を縫って、ゆったりと進んで行く。風もない曇り日、海面は池のやうに麗である。巨艦の舳先には殆んど白波も見えず、動くともなく動いてゐる。それは軍艦とは云はんより、1 個怪偉なる鋼鉄の島である。モクモクと煙の群り昇るが如く、くろがねの層を爲した前檣楼、後方を見れば巨大な盥を浮べたやうな幅廣い巨体、その瀬戸内海を辷り行く有様はじっと見つめてゐろ内に、いつとは知らず涙組むほどの偉観である。

 父母達を乗せた汽艇は、はじめの程は、適度の距離を保って、軍艦のあとを慕ってゐたが、こちらは全速力、相手は動くとも見えぬ速度ながら、いつしかその隔たりは大きくなり、艦上の豆のやうな人影さへ見分けられぬほど遠ざかつてしまつた。併し母達は寒風に顔をさらして何時までも甲板を下らない。

 愛児の姿を全く見失った今、母の目には偉大なるくろがねの浮城そのものが、雄々しく優しい愛児でもあるかの如く錯覚されはじめたのであらう。私は母の心になつて、遠ざかる巨艦のうしろ姿を見つめてゐた。帝国海軍の威容を象徴するこの浮城は、彼女らの愛児のにこやかな笑顔と重なり会ひ溶けあつて、一生涯の瞼の船となることであらう。

  遠くの海上に夕靄が立ちこめ、巨艦はその中にうすれて行く。うすれながら、大きさは少しも減じないのである。巨大なるものの不思議さよ。霧の中の幻の如く、その影は無限に拡がつて行くかにさへ感じられた。しかし、それも長いことではない。やがて、巨艦はとある島蔭に姿を隠しはじめ、遂には艦尾の一點すら眼界から消え去る時が来た。しかも猶、母親達と私とは、その最後の1 点にすがりつくやうにして、身動きもせず、夕闇せまる海上を見守りつづけたのである。

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