瀬戸内海の小島―江田島こそ「見敵必殺」の烈々たる我が海軍精神の揺籃の地である。この地を、無敵の海軍の根幹たる幾多の俊ぽうが輝かしき伝統精神の下に育まれ巣立つて行ったのである。 兵学校をつゝむ江田島の村全体も素朴な土地です。兵学校のそばにある矢野旅館と云ふのに私達は泊まりましたが、こゝのおかみさんの話では、この村にはカフェーもなければ料理屋もないと云ふことで、村のにぎやかなところを歩いてみますと、古い城下町にでも来てゐるような長閑なものを感じました。八百屋の店頭には、蕗や筍がみづみづしく出てゐますし、食物屋の軒にはうどん、しる粉出来ますといビラがさがったりしてゐました。村の人たちは、兵学校の生徒の方々を、「生徒さん」と呼んでゐます。その「生徒さん」といふ言葉が如何にも親しさうで、明るい海に囲まれた平和な島の兵学校の姿をあなたたちもまづ空想してみて下さゐませんか、何と云ふ住みよさそうな島なのだらうと思ひました。 雨の降るなかを、白亜の豪快な生徒館の正面には、菊の御紋章が輝きわたってゐました。校内の裏にある八方園には社殿の前に、各生徒の出身地である故郷を示した、円い石の方向台が置いてあるのもほゝえましくみえました。鹿児島・熊本・北海道、様々な土地へ向つての方向が示してあるのを眺めて、礼拝に登って来た生徒の方々のつつましい崇祖の信念をうかゞへ、こゝにも、「人」をつくる学校の信念を感じます。雨のなかに煙ってゐる緑の木々の間からいま真盛りの薔薇の花(註・皐月の誤り?)が咲いてゐました。 屋上に出て朝の体操前に号令の練習をする組がありましたが、号令の合唱は朝の湾のなかに木霊してまるで山の中のコーラスのようにきこえました。校庭では全校そろっての体操がありましたが、すつかり四囲が明るくなつて、青い浸みとほるような朝空と、生徒の小麦色の半裸の姿が、健康そのものに感じられて、どのやうな学校生活も、このような健康な土地で始められるべきだと思つたりしました。 村の畑には麦がうれ、枇杷には袋がかぶせられ、橙の木には、枝もたわむほど橙がみのり、ところどころの民家には白い藤が咲いてゐたり、本当に眠たくなるやうな鄙びた景色でした。煙草屋の硝子瓶には煙草がいっぱいはひつてゐるし、小さいカジヤさんはフイゴをあふいで勇ましく鉄を叩いてゐました。 私は兵学校と云ふところを、島全体にあるのかと思ってゐましたら、江田島の島そのものが非常に広い土地なので吃驚してしまひました。沢山村落のある江田島に、1軒の料理屋もないと云ふことはうれしいことだと思ひます。 朝食が済んでから朝の点呼が校庭にあるのですが、幾人かの教官の方々が、1人1人の顔や姿勢を眺めて、今日一日異状なきかと云つた心づかひで生徒の顔や姿勢を見てゆきます。何某、何某、何某、号令のような太い声が生徒各自の口からほどばしつてゐます。 平和な素朴な村に包まれた兵学校の中の生活は、このごろは、それこそ、土曜も日曜もないやうな忙しい一日ださうですが、生徒の方々はみんな同じひとを見るやうにむくむくと無邪気な表情なのです。 私達はまた教育参考館の堂々とした建物へも参りました。正面の2階には東郷元帥の御遺髪と、遺品を配置している東郷元帥室があり、どのお品を見ても質素で地味な御生活をしのばれて奥ゆかしい趣味が感じられ、暫くそこを立ちさりかねる思いがいたしました。 玄関上には、戦公死者名牌があり、各室には、これらの方々の遺品が安置してありましたけれど、南郷少佐のお写真と遺品の前では、私は思はず立ちどまつて眺めたものです。生きてをられる頃、或る会で1、2度お眼にかゝつた事があり、つつしみて私は黙祷をさゝげました。 ここへ来る生徒の方々は、かうした先輩の方々の歴史を知ることにおいて、無言の教訓を受けられるのださうです。山本権兵衛大将の御遺品の前では私は、丁寧につくろつてをられる大将の靴下を眺めて、目頭が熱くなつて参りました。尊い御身分でゐて、なほかつ此様なこまやかな心持をもつてゐらつしたのかと、無言の教へを受けた感じでした。今日、何がないとか、何が困るとかの不足をならべる前に、この一足の教訓を得た事は、五省の文章とともに私にとつては生涯忘れる事の出来ない感銘だと思ひます。 兵学校の方針のなかに、もう1つ私の心にのこりましたのは、日常生活の指導は質実剛健、清廉潔白、端正厳粛を旨とし、先づ、晨朝起床の号音によりて、即起し、以って我執を去り、洗面は洗心と心得、食事には恭敬を念とし、服装容儀は清潔にして斎整、態度動作は沈著にして確実機敏にして、軽躁ならず、活発にして気品高く、敬礼は敬愛の念より発して端正厳粛に、言語文章は簡潔正確にして明快荘重を尊び、諸事整然規矩に合し、而も機械的に流れざるやう期して居ります。体育は特に武道を重んじ、且其の鍛錬過程を術力に求めずして気力に求めてをります。 機械的に流れざるやうと云ふことなぞ、何と云ふはつきりした至言でせうか。がばと起床すると同時に、「我執」を去れと云ふ事も常に信念に向つてまつしぐらと云つた凛々しさを感じさせ、この兵学校の生活が私達には禅味を持つてゐるかのように感じられて来るものであります。けれども、その禅味はけつして消極的なものではなく明朗であり、機械的でない中正円満の美しさかとぞんじました。 |