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[あの日の蛍の光]
笹本寅 (註)直木賞候補作家明治35年〜昭和51年)


この感激を見よ!わが輝く海軍魂ここより生る
                            
その1
昨年の11月14日、海軍兵学校卒業式の日のことです。畏くも高松の宮殿下御台臨の卒業式も目出度く済み、教官や父兄と共にテイブルを囲んだ茶菓会も終わり、共にくろがね会から派遣された摂津茂和氏と私は食堂を出、これから軍艦に乗って晴れの首途をする候補生を船で送る仕度をするために記者の控室へ行かうとして、その通路になつてゐる生徒館の廊下に一歩足を踏み入れた瞬間、はつとして眼をみはり思はず立ちとどまつてしまひました。
 
 自習室の前のその廊下の両側にあとに残る生徒がずらりと整列してゐるのです。すると、そこへ食堂から出てきた候補生が、さつき御差遣宮殿下を御送りした時つけたばかりの真白な手袋も晴れがましく挙手の礼を返しながら、『しつかりやれ、しつかリー』、『頑張れ、いゝか、頑張るんだぞ』、『あとは頼むぞ、頼んだぞ!』
 口々に鼓舞し、激励しつゝ、過ぎ去って行くのでした。それが普通の挨拶でしたが、なかには、『おお、お隣の××分隊の連中だな。』
 
 と立ちとどまり、1人々々の手を握つたり、肩をたゝいたりしながら、『御世話になつたな、体に気をつけるんだぞ。いゝか、しつかり頼んだぞ!』
御存知のやうに、兵学校では、おなじ級の生徒だけを集め、それをずつとかけ離れた先生なり教官なりの指導者が指導して行くといふのではなく、その自習室には上級の1号生徒から下級の2号生徒、3号生徒、4号生徒までの級のちがつた生徒が交わつてをり、上級の1号生徒がみんなをひつぱつて行くといふ教育制度で、つまり1号生徒は上級生であると同時に教師を兼ねてをり、徹底的な礼儀の正しい反面、並々ならぬ情愛がこもつてゐるのですが、同じ自習室にゐた候補生は、抱きかゝへるやうにして生徒との別れを惜しみ、生徒はまた生徒で涙をいつぱい湛え、なかには堪えかねて肘を顔に持つて行く者もあり、見てゐて眼頭が熱くなり、それをかくすように傍の摂津氏の方を見ると、氏の顔にもはらはらと涙が頬を伝はつてゐるのでした。
 
 行つてまたかへつてくる同じ候補生の顔もあり、なかなかに名残は尽きないやうに見えましたが、私はいま茶菓場できいた及川古志郎海軍大将の祝辞の一節を思ひうかべながら、無理もない惜別だと思はずにはゐられませんでした。
…大東亜戦下、最初に卒業して行く諸君、諸君ほど大きな国民の期待のなかに巣立つて行つたものはかつてなかつた!)

 そのような意味のことを及川大将は云はれましたが、たしかに今度の候補生は、遠洋航海にも行かずに、直ちに第一線に赴くのです。廊下を行く1人の候補生が口にしてゐたように(これが顔の見納めかも知れぬ)―ほんとにさういふことになるかも知れない別離なのです。男泣きに泣いて送る生徒、送られ候補生、お互いにその胸中は千万無量なものがあつたに違ひありません。
 

 そのうちに、『集合。』『候補生は八方園に集合。』といふ命令が飛んで、候補生たちは江田島で最後の祈願をするために八方園に集まって行きました。

                            
その2

 いよいよ出発です。カツターの吊されてある岸壁には、いつぱいに見送る生徒や父兄が堵列して、候補生が八方園から降りてくるのを持ちうけてゐます。くろがね会から派遣された江戸川乱歩、摂津茂和の両氏、それに最近前線の従軍から帰つた画家村上松次郎氏らと共に宮島行の汽船で送ることを許された私は大勢の父兄に交つて船の中で待機してゐました。

 やがて軍楽隊の手で軍艦マーチが吹奏されて、八方園から降りてきた候補生が縦一列にならんで桟橋へ進ん行きました。そして、次々に用意されてゐた10数隻の小艇に乗り込むのです。勇壮な軍艦マーチはずつと吹奏されつづけてゐます。
 全員乗り込んでしまふと、候補生の乗った小艇は3、4隻づつ一団になつて、まだ呼べば声の届く岸壁の前を向ふからこちらへ、別れを惜しんで小さな円を描きながら進み、しかも徐々に遠ざかって、1小艇の中でも、岸壁でも、1人残らず帽子をとつて静かに打ち振りながら、刻々に迫る別れの挨拶を交してゐます。
 お互いの顔が見分けられるか見分けられないところまで小艇が遠ざかつた時です。ずつとつゞけられてゐた軍楽隊の軍艦マーチが、突然、

 蛍の光
 窓の雪

 文よむ月日重ねつつ
 いつしか年も過ぎのとを
 あけてぞ今朝は別れ行く

 あの懐かしい(蛍の光)の曲に変りました。私は胸を締めつけられるやうな感激に捉われてしまひました。蛍雪の功空しからず、雄々しくも醜の御盾として巣立つて行く若桜―世界に冠絶せる江田島の教育 ― 私は昨日校内を案内してもらひながら監事の近藤少佐からうかがつた兵学校の教育の話を胸に噛み締めて味ひかへしました。
 
 『―兵学校の教育の真髄は、どんなところに有るかと端的に申しますと、』歩きながら立ちとどまつて近藤少佐は話されるのでした。

 『一言につくせば、(言ったことは必ずする!)といふことです。』 
 それから、また― 『―兵学校の教育の目的は? 真剣に学問し、剣道するのは、なんのためか? ときかれて、口をついて出る答へは、(陛下の御為!)の一言につきます。このことはハッキリ感得し終わったら先ず目的を達したものと云へませう。新入生の時にはいろいろ理屈めいたうまいことを云ふ者はたくさんゐるが、しかし、言下に、(陛下の御為!)と答へ得る者は1人もゐないと云へます。それがここで教育されてゐるうちに、そうハッキリと云へるようになるのです。(無私絶忠)の境地に到達することが出来るのです。』

 いま、このような素晴らしく教育された精神が、立派に錬成された肉体が、一切を捧げて鴻毛の軽きに置き、米英撃滅の大任を双肩に担ひ、師に父母に後輩に別れを告げていで立たうとしてゐるのです! その(蛍の光)の曲は、すぐまたもとの勇壮な軍艦マーチに変りましたが、それが短かかつただけに、まことに印象的でありました。これほど悲壮な勇烈な意味深い(蛍の光)は、恐らく他のいかなる時と場所とでも絶対にきくことは出来ないに違ひありません。 

 少艇の候補生は○隻
(註・戦艦山城と扶桑の2隻)の軍艦に分乗しました。やがて軍艦は西に向つて静かに動き出しました。そのあとを追つて、私達の乗った宮島行の汽船も動き出しましたが、軍艦と汽船の距離は次第に引き離され、曇った空からは大粒の雨が落ち、それが激しい吹き降となり、われわれは船室にはいりましたが、父兄はその人の息にすぐくもるガラス窓を拭き拭き、『あ、見える!』『かすかに見える!』

 灰色の海面に姿を没して行く軍艦の姿を眼に烙きつかせながら、武運長久を祈る心の中では、をのがじしあの(蛍の光)の曲をいつまでも繰返してゐたことでしょう。

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