最前列には、御めでたくも御卒業遊ばされる海の宮様、久邇宮徳彦王殿下をはじめ奉り、卒業生徒、卒業選修学生、続いて全校生徒が、広い大講堂にぎっしりと整列、後方にはけふの光栄に胸を膨らむ思いの父兄の方々が容を正して居並ぶ。 (挿入写真の説明) 高松宮殿下をお迎えする卒業生 しはぶき一つしない森閑とした式場、私は記者席の前列に生徒と肩を並べて起立してゐた。そしてこの静寂な一ときに、私の胸には昨夜、校外のある倶楽部(生徒が休日などに集ふ定められた民家)でみた、父と母と子の別れの情景が浮かんで来た。 (挿入写真の説明) 校庭で卒業生家族と語る清閑寺氏 8時門限の時間ぎりぎりまで名残を惜しむ母と子。一方では、黄色い袋に包んだ祖先伝来の名刀を息子に手渡している白髪のお父さん、眉宇に硬い覚悟を浮べて『きっとやります』と誓ふその生徒も、あの生徒もこの席にいる筈だ。いや全卒業生が、純忠一筋に燃えたつおもひで、いま、待ちに待った光栄の卒業式にのぞんでいるのだ。 ついで生徒首席田結保生徒が全卒業生徒を、さらに選修学生第○○期首席小木田兵曹長と第○○期首席宮野兵曹長が、それぞれ、卒業学生を代表して証書を授けられ、続いて御下賜品拝受の式に移る。ふたたび学校副官が『第○○期生徒御下賜品拝受者田結保生徒。』と呼べば、同時に、森厳荘重きはまりない奏楽が場内の空気をうちふるわせて流れる。 これぞ、ほまれの曲である。
江田島はネーブルと蜜柑の名産地である。1号生徒(最上級生)は夏の初め頃から山の斜面を覆ふ蜜柑畑の青い実を眺めながら、『早く黄色くならんかなあ。』『あれが黄色くなる頃は……。』と級友と顔見合わせて笑ふのである。 海軍兵学校生徒として生徒服でお迎へ申し上げた 御差遣宮殿下を、抱茗荷の帽子,金筋の蛇の目の候補生服で奉送申し上げる新少尉候補生は、大食堂に設けられた茶果場へと父兄を案内する。下級生の敬礼も鷹揚に、いさゝさかのはみかみは見せながらも貫禄はすでに十分である。 茶果場は零時五十分から開かれた。『越後獅子』だの『吾妻八景』での江田島には珍しい快い奏楽が絶えず流さる饗宴場では、来賓や学校職員、父兄とともに、今日のよろこびを分つ暖かい最後の交歓がはじまる。 愛児をさとす慈父のように諄々として激励の言葉を述べれば、室一杯に立ちならぶ海の若武者たちは、いづれもこの千載の光栄にうちふるへ、紅顔に一死奉公の決意を漲らしてゐる。 来賓席の一隅に列する光栄を得た私は、母堂佐賀野さんと並んで居られる、恩師の短剣拝受者田結候補生に、心からお祝いの言葉を餞けた。
各分隊自習室前のその廊下には、3年間起居をともにした同じ分隊の下級生たちが、2列にずらりとならんで、今かいまかと上級生の通るのを待ちかまへてる分隊こそは一家族も同じだ。それは肉親の兄の出征を送る弟のいぢらしい気持ちと変わりない。 分隊といふのは、1年、2年、3年の各学級の生徒をくみ合せたもので、各分隊には最上級生から選抜された伍長、その伍長を中心に上級生が兵学校伝統の精神によつて、すべてを指導し、教官はその背後にあって暖かく監督指導の眼を瞠つれゐる。かくしていつとはなしに以心伝心、先輩のあとをうけつぎ、1つの気風をなす伝統精神が、この生徒館生活から育くまれて来るのだ。 その兄が、先輩がいまこそ、この江田島を去つて海の護りの第一線に出てゆくのだ。 3年間の情愛をこの一瞬にこめるおもひで候補生に1語1語を投げつける。みんな涙ぐんでゐる。涙とともに叫んでいる。 『ありがとう。……おい。後を頼んだぞ。』 やがて候補生たちは大講堂の横を通つてこやまの上の八方園神社に詣でる。
『こゝでお見送りですか。あちらの方が見よくはないですか。』 老媼はにこにこしながら、 『伜がこの松の下に居ろといふのですよ、この松を目印に船から帽子を振ると申しますので。』 あゝ松を目印に別れの合図―母と子のなんといふ濃やかな情愛であろう。 『お年寄りで、よくおいでなさいましたね、お国はどちらですか。』 『伊勢の亀山在でございますよ、親子4人の百姓で、伜にはろくなこともしてやれませんだが、皆さまのおかげでやつと一人前の軍人になれて、こんなありがたいことはございません』 老媼は黒光する頬に笑ひ皺をよせながら、 『昨夜倶楽部でいろいろ話しましたが、伜は兵学校で教へられた通りをやりぬくというてをりました。わたしの口から申すのも変ですが、感心な子で、無駄な金は使ひませんでした。わたし少しばかり貯めた金を、こんどもつて来ましてな、伜の小遣に渡さうとしますと、勿体ないというて、どうしても受取りません。どうか取つてくれ、お母さんは年寄り、小遣も要らんのだからと、重ねていふと、お母さん、済みません…といふて、涙を出してな…。』 そういつてお母さんは目を伏せた。 (管理者注) 台湾沖の航空戦で戦死した三重県亀山市出身の海軍大尉若林重美君のお母さん・ともえさんであった。 雨はボツボツ落ちて来た。お母さんは困惑の表情で暗い空を仰ぎながら、『兵学校の卒業式はいつも晴ぢやそうなが。』 呟くようにいふ。すると傍に近づいた教官らしい士官が、やはり空を仰ぎながらいはれた。 『あゝこのクラスから大将が出るわい。』 私は訝りながら訊いた。 『それはな、兵学校の卒業式にはめったに雨は降らんが、雨がふると、その卒業のクラスから大将がでるといはれとるです。』 教官は愉快さうに笑った。私も笑つた。 『さうですかい、大将に…。それはめでたいこつちや。』 明るい顔のお母さんを真中に教官と私はまた笑ひなおした。 このときである。見送りの家族のあひだにどよめきが起こった。 八方園神社の参拝を終へた候補生が、隊伍正正、表桟橋へ近づいて来たのだ。 『しかりゆけよつ』『頼んだぞツ。』 教官の激励が乱れ矢のように飛ぶ。その1人1人の教官に万感こめて御礼の言葉を述べていく候補生。その眼は燃えてゐる。教官も泣いて居られる。 ひびきわたる『出港用意』のラッパ,もくもくと黒煙をはく軍艦からは勇ましい抜錨の音!奏楽の『別れのうた』がひときは高く鳴りひびく。 |