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[いざ征かん] ―海軍兵学校卒業式に参列して―
(註)直木賞候補作家、明治32年〜昭和63年 

(挿入写真の説明)名代宮殿下を奉迎申し上げる卒業生一同

 海軍兵学校生徒の服装は恐らく日本中で一番魅力の深い服装であらう。率直にいって僕などは勲章を一杯につけた海軍大将の礼服姿よりはこの兵学校生徒の服装の方に魅力を感じる。

 その濃紺一色のすっきりした服装に短剣をブラ下げた卒業生達が、江田島の校庭で三々五々紋付姿の父や母と睦まじく肩を並べて名残の逍遥をしているさまを眺めた時には、正に一幅の絵のような気がした。
 
 尤もいくらあの服装がいゝからと云って、色の生つちょろいヒヨコヒヨコした奴があれを着たんでは正にホテルのボーイである。だから結局あの服装を生かしているのは矢張り中味だということになる。それでは体格が見事だから引立つのかといふと、それだけではまだ海兵生徒達の真の容姿ではない。成る程米国の宣伝映画に出て来るアナポリス海軍兵学校生徒達の格好はなかなかその点では見事らしく見えるが、わが江田島の生徒達の立派さに比べると彼等のはいはゆる白痴的な美しさだ。美しいには美しいが、何か欠けているものがあるのが東洋人の審美眼にはすぐわかる。つまり、精神的な美しさである。これだけではルーズベルトを逆さにして振ってでもわかるまい。

 特に今度の大東亜戦争下初の卒業生であるのと、遠洋航海をせずにいきなり第一線に飛びだすために、生徒達の眉宇にはおのづから悲壮な気が充ち溢れて、何か強く心を打つものがあった。

 兵学校教育の根幹を知るには何より生徒自習室の中を見るに限る。この自習室の構成こそ他に比類ない海軍独特のもので、謂はゞこの構成が帝国海軍の基礎であり、エキスであり、象徴でもある。即ち一自習室は一分隊であり、同時に訓育の一単位である。従って一自習室には各学年生徒が机を並べて一分隊を作り、最上級生の中で人格、識見、学業共に第1の者が選ばれて一分隊の指揮権をもつようになっている。そしてこの分隊精神を指導訓育するために、大尉以上の教官が一人づゝ分隊監事として監督する。つまり、各学年生徒を包含して一分隊を構成したところに兵学校教育の独自性がある。

 井上兵学校長にお目にかゝつた時のお話によると、単に学術教育の方面から見ても、僅か三ヶ年の短い間によくもこれだけのものが習得しうるものだと、往時と今日との教材の内容分量を較べて校長自ら感服してをられた。しかもその学術研鑽に加へて日夜絶え間ない精神と肉体の修養錬磨である。思もうてもこの兵学校課程が如何に充実したものであるかゞ察せられる。

(挿入写真の説明) 校庭で家族と睦まじく名残を惜しむ卒業生たち

 僅か2日間の江田島見学であったが、この隔離された清浄な地域で僕が一番強く感じたことは、この学校のもつ、科学と美意識と精神観に対する大らかな包容力であった。つまり、何処にも偏重された一種の窮屈な雰囲気がないのだ。これは兵学校を単に軍人の学校と思って来た僕の全く意外とするところであった。この点は『海軍』の作家岩田豊雄氏も別な言葉で表現しているが、特に美意識―つまり形式美といふか、造型美といふか、さういった美の精神を峻厳な軍人的規律生活のなかに巧みに融け込ましているところに海軍の融通無碍な進歩性が有ると思った。

 この形式美は、兵学校生徒の相貌挙止に現はれてゐる高僧の如き超然たる精神美と相俟って、益々高度の完全美を示顕する。その尤も示顕された1例がこの学校の卒業式であると僕は思ふ。

 実際僕はこれほど心を打たれる卒業式が兵学校に於いて行はれるとは予期しなかった。軍人のことだから荘厳極まりないものであらうとは思っていた。然し事実この卒業式の一日に行はれた行事は軍人よりも学生の純真性といふものに多分に重点を置いた荘厳と親和と激情の坩堝であった。

 その第1の例が、10人の優等生が1人づゝ軍楽隊の吹奏するヘンデルの『誉れの曲』演樂裡に恩賜の短剣を拝受する光景だ。満腔の感激を凛々しい紅顔に包んで、白紙に巻かれた短剣をサッと左手に高く捧持して名代宮殿下御前に参進する場面は栄誉の極到といった感じがする。僕は如何なる学校に於いても、1曲づゝの奏楽裡に褒章を授与される卒業式のあることを寡聞にして知らない。況んや既に幾度か耳にしたことのある泰西古典作曲家の父ともいはれらゲオルグ・フリードリツヒ・ヘンデルの1曲を、この日この場所で聞こうとは夢にも思って見ないことであつた。

 第2は、卒業式直後大食堂で行はれる卒業生と父兄と教職員及び来賓のなごやかな立食の大饗宴と、それが終わって生徒館の長廊下に堵列する在校生に対して卒業生が決別を交はす激情的な光景である。饗宴は兎も角として、この訣別の場面こそは兵学校生徒の学生としての純真性を端的に表現する最もうるはしい情景であらう。それは寧ろ決別と云はんよりは卒業生が下級生に与へ残す最後の激励の場面といった方が当つている。特に今回はいきなり第一線に飛び出すだけに、ひとしほ悲壮の感が深い。彼等もまた青春の若人である。激励の言句を怒鳴りながら、2列に堵列する在校生の中を通り抜ける卒業生達の双頬は点々として濡れてゐる。無言のまゝ激励を受ける在校生の歯を食ひしぼった顔にも幾条となく白く光るものがある。あゝ、かくの如き激情の機会を若き彼等になすがまゝに与へる兵学校に栄光あれ、である。

 第3は、この卒業式の最後を飾るに相応しい卒業生出港の光景である。従来ならば紺碧の江田内には軍艦○○(註・戦艦扶桑、山城であった)が彼等を持ち受けているところだが、今度はそうではない。見給へ。戦闘旗を檣頭高く翻へした巨城の如き艨艟が彼等の出陣を待っているのだ。既に颯爽たる少尉候補生の服装に変わった卒業生達は、桟橋に陣取った軍楽隊の『蛍の光』と『軍艦行進曲』の奏楽裡に勇躍して内火艇に飛び乗る。紺一色の卒業生を満載した20余隻の内火艇はやがて岸壁上に堵列した在校生の前を最後の名残りを惜しむやうに右往左往して彷徨する。船も陸も帽子の渦巻きである。かくして卒業生を乗せた内火艇がいよいよ沖の浮城目がけて進み始めると、今度はソレッとばかりに在校生は懸声も勇ましく岸壁にぶら下がったカッターを引きおろして飛び込むのだ。
 
 30余のカッターは櫂も折れよとばかりに水飛沫を上げて、巨大な艨艟を取り囲むように進む。万歳のどよめきで、江田内の海上も一瞬圧せられてしまふ。この時既に卒業生達を乗せた艨艟は静かにその巨姿を動かし始めた。かくて群がるカッターの前を巨大な浮城は徐々と通過して、遂に薄暮迫る水道の彼方に一個のシルエットとなって去つて行く。

 僕が兵学校の卒業式で心を打たれた印象的な場面は以上の3つであるが、しかし、真にこの情景を国民の前に伝へ得るものは完全無欠なテレビジョン以外にないであらう。その意味においても僕は幸福であった。

 もとより僅かな紙数で海軍兵学校の内容を語り得ものではない。たゞ僕の云わんとするところは、この卒業式行事の情景から察せられる通り、この学校のもつ大らかな包容力と、その結果の1つである形式美の示顕に就てである。生徒のスマートな服装も、『誉れの曲』も、最後の劇的な海上送別の場面も、要するに兵学校のもつ凡ゆる要素を一箇の形式の美しさに織り込んだ所産である。畢竟宗教も芸術も形式の力を藉らないではその真の姿を示し得ないのだ。形式を蔑にする者には精神的の昂揚も有り得ない。

 (挿入写真の説明)内火艇に分乗した卒業生、最後の別れを送る家族たち

 もともと帝国海軍は人気取りとか、ポピュラリテイを欲しない建前である。だから、この兵学校の一種の華やかさを以てある種の、少なくもアナポリス型のポピュラリテイを狙ったものと曲解するものがあれば、これは帝国海軍を語るに足らん人である。

 兵学校3年の精神訓育は「個」を捨てて、陛下のために生命を捧げる軍人精神の達成である。1年生よりは2年生、2年生よりは3年生と、だんだんに純真無垢の境地に達して、卒業生の心境は既に神々しいまでに純化され、澄み切ってゐるのだ。僕は卒業式前日に、兵学校副官の近藤少佐が、この純化の極地にある卒業生徒達には父兄達の姿すら一種の雑音であると云って、式場を撮影する映画を拒んだ―尤も結局は許可したが―ことを思いだすのである。

(註)海軍広報映画『勝利の礎』として戦意高揚のため一般に公開上映された

 今や帝国海軍は日本全国から優秀抜群の青年を求めている。それは、この未曾有の非常時局において当然なことである。従って、僕もこの1文を海軍のポピュラリテイのために、或ひは卒業式の実況を興味本位に国民に知らさうなどと思って書いているのではない。いさゝかでも率直な実感から兵学校の片鱗を描いて、世の父兄に、そしてわれと思はん青年諸君に呼びかけるつもりでゐるのである。

 卒業生達を乗せたあの印象深い巨大なシルエットは今、いづこの海上を走っていることであらう。この一文を草している時、恰も第3次ソロモン海戦の戦果が発表された。彼等は今や死闘を繰り返している先輩の許へ一刻も早く到るのを切歯して待ちこがれているに違ひない。それを思ふと母の懐中へも入ることもなく、学校からその侭海へ出て行った彼等のために僕の頭は自然に垂れ下るのである。いざ征かん! 莞爾として内火艇に飛び移る彼等の姿が、巨大なシルエットを背景にして今彷彿と僕の瞳に浮かんでゐる。それは多分、一生僕の瞳からは消えないであらう。             

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