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旧海軍の伝統発祥の地での江田島教育

1、海軍兵学校教育
 
 1年の間、最底辺で蠢いた4号は2、3号時代の優雅な生活を経て、1号生徒となる。その1号生徒は広い海軍に置いて聯合艦隊司令長官に次ぐ地位であると言われていた。長官には誰でも成れるわけではないが、江田島に入りさえすれば、試験にパスし、病気をしなければ1号生徒には誰でもなれた。

 江田島出身者の間では、1号生徒と4号(71期以降は3号)の関係は終生変わらない。直木賞作家で我々の1号生徒であった68期の豊田譲生徒の著『4号生徒』(我々の間では多分に批判的な意見がある)をご覧になった方は多いであろう。
 この著者を含む1号生達の対称となったのは、わがクラスの第35分隊の4号生徒16名であった。

 岩石博明、八島淳二、和田圭三、高橋重雄、佐藤孝(航空部隊)、山本達雄 (潜水艦) 戦没
 植松真衛、桧垣保雄、田中弘、橋本馨、森田恵(航空部隊)、
大野隆司、田辺敏亮 (航空兵器整備) 与田俊郎(艦艇)、清水郁夫、細見公明(潜水艦)
生存

 著者の豊田生徒を筆頭とした同分隊の「鬼の1号生徒」に鍛えられた為か、海で、空で、海中で勇敢に戦った。犠牲となったのは6名、幸運にも生き残った10名の内現在も6名が矍鑠としている。

 71期は他のクラスに比較すると次に示すように1号生徒として新入生(第73期)をまるまる1ヵ年間指導した。したがって、聯合艦隊長官に次ぐ地位と1号生徒の特権を開戦と同時に共有した。其の点からも我々は幸運なクラスであった。
 海軍兵学校教育についての出版物は多いが、それを纏める資料と能力がない。しかし編者は3年間その教育を体験し、海軍は良かったとの実感と戦後の勤務、生活での恩恵を享有した。

1号生徒として下級生を指導した期別の期間、卒業員数

期 別

入校〜卒業(1号生徒の期間)

卒業員数
(戦没者数・)

68期

 12・415・8(3年8ヵ月・8ヵ月間)

 288名 (191名・66%)

69期

 13・4〜16・3(3ヵ年・4ヵ月間)

 343名 (216名・65%)

70期

 13・1216・11(3ヵ年・新入生なし)

 432名 (285名・66%)

71期

 14・1217・11(3ヵ年・1ヵ年間)

 581名 (331名・57%)

72期

 15・1218・9(2年9ヵ月・10ヵ月間)

 625名 (335名・54%)

73期

 16・1219・3(2年4ヵ月・4ヵ月間

 901名 (282名・32%)

74期

 17・12〜20・3(2年4ヵ月・6ヵ月間)

 1024名 (17名)

75期

 18・12繰上げ(1年8ヵ月・5ヵ月間)

 33780名 


2、終戦により海軍兵学校が閉鎖されたが、海軍の伝統の灯は消えなかった

 昭和20年10月20日に兵学校は廃校となりその歴史を閉じ、我々は残念ながら母校を持たないことになったが、海軍兵学校は永遠に不滅であり、最終学歴は専門学校並みの海軍兵学校である。

 続いて、11月30日に海軍省が廃止され、大英国海軍・ロイアルネービーの流れを汲むサイレントネービーの帝国海軍が明治2年(1869)に創立されてから77年間の光輝ある歴史を汚して閉じた。しかし、勝った米海軍は、吉田英三元大佐達と伝統ある帝国海軍の再建を行うことになる。
 
 創立から75期までの卒業者総数は11,182名、うち戦公死者が4,012名(このうち太平洋戦争での戦死が95%)の多きに達した。

 之に反し、在校生の総数は11,373名という膨大な生徒数で、江田島本校、大原分校、岩国分校、舞鶴分校と発展した。在校中のクラスは次のとおりであった。
 

第76期

19・10・9

3,570入校

機関学校が併合

第77期

20・4・10

3,771名入校

第78期

20・4・3

4,032名入校

海軍予科生徒

   
 この彼らが戦後の復興の原動力となる。それは、井上成美元校長(最後の海軍大将)の卓見であり、期友の柴正文君
を委員長とする『井上成美海軍大将』が創刊された。
          
 しかし、ここで忘れてはならない重大なことがある。彼らを支えた海軍予備主計学生と同じく学徒動員で海軍に籍を置いた海軍予備学生出身の財界人があったことである。

 管理人にも終戦間際、駆逐艦「桐」に配乗になった4期予備学生が4名配乗、砲術士
小林正一郎少尉(東大卒)は関西電力の社長、会長であった。また、航海士の増田胆少尉は早稲田大出身、「久保田鉄工」で活躍した。其の増田氏の義弟阿川弘之氏は東大卒の予備主計士官、最近(平成17年11月の讀賣紙で「戦争に負けてよかったとは思わないけれど、負けた結果は良かったと思わざるを得ない者が多いと感じるようになりました」とある。同氏とは面識が無いが、増田氏の妹さんとの関係で「戦没同期生の顕彰」を60年間続けている編者のことが談話の端々にのぼったのでは無かろうか。同紙では「野太く貫く戦争、敗戦への重い」、「鎮魂60年」とあるから。

 公職追放の解除によって海上警備隊に入隊した幹部のほぼ全員が旧海軍の出身者であり、戦後日本に誕生した海上防衛力はアメリカ海軍の全面的は協力のもと戦前の日本海軍を継承する組織として誕生した。

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