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潜水艦での戦陣
1、まとめ
(1)開戦時から終戦時までの潜水艦保有状況の推移
開戦時保有隻数 64隻 予備艦3隻を含む
戦時中建造隻数   118隻 波号潜水艦16隻を含む
旧ドイツ潜水艦受領及び接収 8隻  
戦時中喪失隻数 27隻  
予備艦から除籍 4隻  
終戦時保有隻数 59隻  
  
 潜水艦での戦死の状況は水上艦艇と異なり、誰にも知られることなく、七条一成▲、内山英一▲(いずれもトラック環礁内)のような場合を除き行方不明である。司令部との連絡が絶えた後、搭載の食料等がなくなる約2か月後に艦は喪失、乗員は戦死と認定される。戦後、米国の資料とつき合わせてその最後がほぼ明らかになっている。
 
2、71期のどん亀期友の参戦

(1)少尉候補生で潜水艦配乗19名の初陣 (前出)

 わがクラスにおいては実務実習(2ヶ月間)終了により前述のとおり期友19名が潜水隊付で初陣を飾ったことは既に述べた。彼らは実際には所謂「ノーマーク(無章・次の各学校の各種課程に入らない者をこのように呼んだ)であったが、6月1日に少尉に任官したところで再開される普通科潜水学生に予定されていた。しかし、その内2名(赤壁行郎と松田広和)が少尉に任官直後アリューシャンで戦死し、15名がこの普潜課程に進みマーク持ちとなる。
 その状況は既に述べたところであるが、再度知りたいむきはここをクリックしてください。
 
(2)潜水艦乗員となるための教育
 
 「潜水艦乗り」となるためには、平時においては原則として潜水学校の課程を修業することが必須となっていたが、開戦後普通科課程は閉鎖されていた。
 
 潜水学校は、大正13年(1924)以来呉の吉浦にあり、潜水艦長、水雷長(先任将校)、機関長を養成する甲種学生、乙種学生(後の高等科学生)、機関学生(後の高等科学生第2班)があり、開戦後は航海長、砲術長、機関長付の教育は、1か月程度の「講習員」課程のみであった。

 昭和17年(1942)海軍潜水学校教育要項の改正により、翌18年初頭に学校が山口県大竹に移り、6月に普通科課程が復活した。

 @この普通課程学生は兵学校の2、3クラスの混成で行なわれ、まず第9期普潜学生として第70期の5名、71期の42名が入校、約4か月間にわたる教育が開始された。
 
 Aその後、10期〜12期と続き、わがクラスとしては総計106名が卒業し、18年11月からの戦陣1年5ヵ月間に59名が戦死、1名が戦病死した。



第9期普潜学生 (18年6月〜10月、42名卒業、29名戦死、1名戦病死)
期友氏名 卒業後
の配属
戦没月日 敵の攻撃手段 備  考
平尾淑人  呂38潜  ・ 1・ 22 ▲019 不明 タラワ島方面
河野幸生 呂37潜  ・ 1・23 ▲020 艦・ビューカナン 号 ニューヘブライズ島哨戒
寺西是則  伊171潜  ・ 1・31 ▲021 駆・ゲスト、ハドソン ブカ島に物資輸送
中島千弘  伊43潜 ・ 2・15 ▲034 潜・アスプロ号 サイパンから陸戦隊輸送<トラック入港直前>
七條一成  伊10潜  ・2・17 ▲033 対空機銃射撃中の
被弾
トラック空襲<環礁内>で潜航間に合わず浮上のまま応戦
阿部 守  伊11潜  ・3・20 ▲022 不明 エリス偵察後<フナフチ島・サモア諸島>
藤村卓也  伊42潜  ・3・23 ▲035  潜・タニー 号 サイパンから川内浩小隊ラバウル進出中<パラオ南方>
高山重威  伊32潜  ・ 3・24 ▲037 駆・マンラプ号
駆潜艇・PC113
ウオッジェ島への作戦輸送、敵発見報告後
堂園利徳 伊2潜 ・5・4 ▲038 駆・ソーフィー 号 アドミラルチー島に輸送後、ラバウルからの帰途
 <カビエング方面>
内山英一  伊169潜 ・4・7 ▲041 沈座潜航中事故 トラック空襲時<礁内>
岩崎幹男  伊174潜  ・ 4・13 ▲039 不明 トラック基地南方で配備中
久保良正 伊183潜  ・4・28 ▲040 潜・ボギー 号 呉発、トラック進出中<豊後水道南>
東 襄  伊16潜  ・ 5・19 ▲046 対潜掃討部隊の
駆逐艦3隻
トラック発ブイン輸送<ソロモン海域>
萩原達雄  呂106潜  ・ 5・22 ▲047 イングランド号 索敵線で哨戒中<アドミラルチー島北方>
山本達雄  呂108潜  ・ 5・26 ▲048 同上
松園正信 伊52潜    ・6・24 ▲097 フランス
・ビスケー湾手前
ドイツ派遣の往路で
浜本平治  伊177潜  ・ 7・ 5 ▲081 サイパン島で玉砕 呂106潜に赴任旅行中・同島にて待機中
水門 稔  伊29潜  ・7・26 ▲096 潜・ソーフィシュ号
潜・テルシシュ 号
ドイツ派遣を完遂し帰国時<魔のバリンタン海峡>
重本 剛  伊364潜  ・ 9・16 ▲099 潜・シーデビル 号 ウエーキ島輸送<犬吠埼東南東>
平田光久 伊38潜  ・11・12 ▲182  駆・ニコラス号 回天作戦のためクツルー島偵察<パラオ方面>
河崎秀章 伊166潜・入院→霜月  ・11・25 ▲160 潜・ガバラー号 シンガポール発ブルネー進出中<ナツナ島>
宮本由松  伊351潜 20・ 7・14 ▲295 潜・ブルーフィシュ号 シンガポールからガソリン等輸送の帰路
(松永便乗中)<ボルネオ西方海域>
細見弘明 伊181潜

生還
鈴木好和 伊154潜

青木 滋 呂41潜

戸田専一 伊158潜

細谷孝至 伊6潜

水中特攻( 回天・蛟竜、海竜等)
深佐安三  1特基付里隊(70期) 19・ 7・ 81 ▲082
      ▲083
サイパン島玉砕 サイパンに進出時、母船の沈没で母艇喪失、同島にて待機中
後藤恭祐 
仁科関夫  伊47潜で 19・11・20 ★183 ウルシー基地
回天突入
成功・輸送艦撃沈の情報あり
大河信義   沖縄根蛟竜 20・ 3・25 ▲253 上陸船団攻撃中 沖縄・運天基地から出撃
川島 巌   ・ 4・13 ▲269 陸戦中の戦死 八重岳山中での陸戦に移行
伊熊隆平  小豆島突撃隊  ・ 7・ 2 ▲299 敵機の機銃掃射で
被弾戦死
司令部の母艦上で指揮中
小川義尚 呉鎮付 20・6・26 ▲328 イ372潜で発病 横須賀海軍病院熱海分院
上村典次 沖縄根拠  父島根に移動後、大浦突撃隊   蛟竜 生還
安部六郎 甲標的講習 大浦突撃隊
久戸義郎
神山政之
仁平輝雄 父島根から移動、大浦突撃隊
前田冬樹 横須賀突撃隊から海竜の試作実用実験に従事 海竜
久良知滋


第10期普潜学生 (18年12月〜19年4月、42名卒業、21名戦死)
期友氏名 卒業後
の配属
戦没月日 敵の攻撃手段 備  考
有薗 勝 伊176 19・ 5・16 ▲045  駆・4隻 ブナカナウ→ブカ島輸送中<ブカ島北東方>
小竹 弘 呂111 19・ 6・13 ▲067
     ▲068
駆・テーラー号 米軍サイパン島上陸の邀撃に進出中<カビエング北>
池田三郎 呂36 駆ルビル号  同上<サイパン東方>
大野勝雄 呂114  ・6・17 ▲069 駆・メルビル号  同上<サイパン南方>
菊池 恭 伊184  ・ 6・19 ▲070 対潜空母スワニーの
     搭載機
ミレー島輸送からサイパン作戦に急遽進出中
<サイパン東方>
門前 宏 伊185  ・ 6・22 ▲071 駆チャンド号と
 ニュ カブ 号
ウエワク輸送からサイパン作戦に急遽進中
<サイパン北西>
熊野武男 伊6  ・ 6・30 ▲072 不明 同上<サイパン東>
河本通明 伊10  ・ 7・ 4 ▲073 駆・D・Wテーラーリッドル
養田秀穂 伊55  ・ 7・18 ▲074 駆・ワイマンレイノルズ テニアン司令部員の救出中 <サイパン東方>
上田良和 伊5  ・ 7・19 ▲075 駆・ワイマン号 同上作戦後、トラック・ポナペ輸送終了で横須賀帰投中<サイパン東方>
清宮恵彦 伊177 19・ 9・26 ▲098 駆・マイルス号 ウルシー偵察<パラオ 北東>
今井千秋 伊45  ・10・28 ▲047 駆・ホワイトハースト号 フィリピン沖海戦に配備中<レイテ沖>
波田野正    伊26  ・11・17 ▲148 空毋アンジオの
 哨戒機と駆逐艦
フィリピン沖海戦に配備中<レイテ島沖>
大賀 秀 呂112 20・ 2・11 ▲208 潜・バッドフィシュ号 パトリナオ救出作戦(航空関係者を収容後)
<比島北部海域で>
平山元清 呂113  ・ 2・13 ▲209  
石川二助 伊12  ・11・14 ▲222 不明 米西海岸への通商路破壊作戦中
兼松良英 伊362 20・ 1・18 ▲224 駆・フレミング 号 メレヨン、トラックに補給中・ウルシー東方
石田治正 伊371  ・ 2・24 ▲225 不明 トラック島輸送成功・内地に帰投中
野元祐一 伊361  ・ 5・30 ▲288 護衛空母
アンジオン対潜機
回天作戦中(山口孝彦同乗)・沖大東島南東方
大曲昂介 伊13  ・ 7・16 ▲298 北海道攻撃中の
敵機動部隊
トラック島に彩雲2機輸送のため大湊より出撃(柏屋憲治同乗)<犬吠埼東方>
松永謙徳 伊351  ・ 7・14 ▲296 潜・ブルーフィシュ 佐鎮付となりシンガポールから宮本由松の乗艦に便乗帰国中<ボルネオ西方海域>
上野立雄 伊54 生還  潜校教官 波232潜・艤予定
滝沢三郎 呂59 呂50潜 横潜基付(過労のため発病)
小西哲夫 呂68 呂43潜 入院・6艦隊司付
萩原和雄 呂57 伊36潜 洋上での回天作戦行動中(天武隊、轟隊)
波号潜水艦長又は艤装委員長
黒田万左留 呂500・独Uボート 高等科課程学生 波104・艦長
大城 実 伊162 波108・艦長
常広栄一 伊165 波209・艦長
八十島奎三 呂64・伊369 波216・艤装委員長
久保 猛 呂43・呂67・呂43 波217・艤装委員長
服部正範 伊8・呂64 波221・艤装委員長
工藤淳一 伊58・伊363 波219・艤装委員長
三浦昌尹 伊37・6艦隊司付 波230・艤装委員長
田口英夫 伊56 波211・艤装委員長
水中特攻(蛟竜、海竜、回天等
根本 克 1特基 光突撃隊 回天
大河原明夫 7期甲標的講習
照屋盛通 33特根付 蛟竜(70期・小島隊)ダバオ進出
是枝良英 沖縄根付
大浦突撃隊
蛟竜
上原道男
遠藤 壬 10期甲標的講習
乙部英爾
花田賢司

 第11期普潜学生( 19年5月〜8月、26名卒業、7名戦死)
期友氏名 卒業後
の配属
戦没月日 敵の攻撃手段 備  考
松村栄之 呂55 20・ 2・ 7 ▲23 駆・トーマスン 号 伊121潜<ルソン島西方>
三枝一徳 呂56  ・ 4・ 9 ▲274 駆・マーツモンセン号 沖縄南東方
神保正夫 呂500  ・ 4・18 ▲275 駆4隻と飛行機 伊56潜<回天作戦・沖縄東方>
佐藤俊夫 伊44  ・ 4・27 ▲276 空母ツラギの哨戒機 伊176潜<回天作戦・沖縄南方>
宮ノ原安男 伊165 20・ 6・27 ▲293 対潜航空機 サイパン東方<回天作戦>
「教育参考館の英霊銘牌に想う」参照
柏屋憲治 伊13 20・ 7・16 ▲297 空母アンジの哨戒機と駆テーラー号 大曲昂介配乗の伊14潜と共にトラック島に彩雲2機輸送(伊14潜は成功)<犬吠埼東>
水中特攻(蛟竜、海竜、回天等)
加賀谷武 1特基付 20・ 1・12 ★223   伊36潜でウルシー基地に回天突入
帖佐 裕 生還  平生突撃隊
33突撃隊
回天・待機
斎藤高房 呂59 光突撃隊
大神突撃隊
隅田一美 伊14 出撃前発病 潜校付→
東 俊男 呂41 伊372潜
斎藤孝雄 初月・呂67 波221潜予定 横鎮付(発病入院)
波号潜水艦長又は艤装委員長
期友氏名 学生卒業後の配属 敵の攻撃手段 備  考
立山 喬 呂109・潜校教官 波106潜・艦長  10特攻戦隊(佐伯)<蛟竜母艦に改装>
蔭山 弘 伊158 波206潜・艤装 川重多奈川工場
清水郁男 呂62 波213潜・艤装 在神戸
吉田弘俊 伊121 波226潜・艤装
竹田 穣 呂68 波228潜・艤装 在佐世保
川島英男 呂58 波229潜・艤装
稲葉天洋 呂49 波215潜・艤装
高速潜水艦、海底空母
小須田
佐太郎
呂62 伊201 潜校付に(波号潜水艦長予定)
本中貞夫 伊157・伊363 高速潜水艦・舞鶴在泊
大賀良平
元海幕長
11潜戦司付 伊202
西島和夫 伊162 伊400(海底空母) 晴嵐3機搭載・ウルシー作戦中
潜校付
伊津野省三 伊152・伊159・伊58 高等科学生予定
西垣英夫 伊155・伊53
松見秀二 伊158・潜校教官

第12期普潜学生 (19年9月〜20年2月、6名卒業、2名戦死)
岩根 剛 呂43 20・ 2・26 ▲238 護衛空母アンジオンの対潜機による 硫黄島作戦に参戦中
山口孝彦 伊361 20・ 5・30 ▲287 航空機による マリアナ方面回天作戦中<野元乗艦>
森山陽一 伊402 生還  海底空母 7月完成 航空揮発油搭載工事中
前田孝正 伊203 高速潜水艦 6月末完成、訓練中
菊池貞彦 伊47   洋上回天作戦から8月11日呉帰投
森山 祐 伊363   ・終戦で佐世保に回航時に触雷沈没
・森山は艦載水雷艇を別途回航中で不在

その他の課程
特修科(潜水艦通信学生)
百瀬元博 ・金剛・飛行学生(免生)
・竜巻作戦要員
通信学生 大浦突撃隊通信長

甲標的(蛟竜)艇長講習(各自の戦歴は前出)
第6期講習(昭和18年10月発令)
深佐安三 ▲082、後藤恭祐 ▲083 サイパン島で玉砕
仁科関夫★183 回天・ウルシー基地に特攻突入
川島 巌▲269 蛟竜・沖縄にて陸戦に移行
大河信義▲253 蛟竜・沖縄にて敵艦攻撃中
伊熊隆平▲299 小豆島配備基地にて敵機の機銃掃射で
久戸義郎、阿部六郎、神山政之、上村典次  特攻戦隊に
第7期講習(同年12月末発令)
上原通男、大河原明夫、仁平輝雄
久良知滋、前田冬樹、是枝良英
特攻戦隊に
照屋盛通 蛟竜・ダバオ配備
第10期講習
落山義幹、遠藤 壬、古本 浩,
 
花田賢司、乙部英爾
 
第11期講習(19年9月発令)
山垣純一郎 駆逐艦早波被雷沈没により 終了後、教官として74期生の指導に当たった
三谷与司郎 エンガノ沖海戦参加の桐から 大浦突撃隊(回天)

計画が取りやめとなった「竜巻作戦」のための講習

 幻の作戦構想であったから関係者以外は初めて聞くことであろう。この作戦は、もともと輸送用として開発された水陸両用戦車(特4内火艇)の車体上部両側に魚雷各1本を積んで潜水艦で輸送し、リーフをカタビラで乗り越えて敵泊地の艦船を攻撃しようとするものであった。19年4月初め瀬戸内海の情島に期友が集合した。 
普潜学生終了者から  遠藤 壬、花田賢司、乙部英爾
水上艦艇から     古本 浩、落山義幹
その他から      70期の3名、72期の1名

 身分は「6艦隊司令部付兼呉工廠付」で艇長予定者である。大浦基地の「P基地」に対し「Q基地」と称した。昼夜を分かたぬ訓練が行なわれ、潜水艦との協同訓練に入った頃から技術的な問題が続出し、特に潜水艦長側から作戦の是非について異論が出るようになった。しかし戦局は急を要し、兎に角決行することになり、5月頃第15潜水隊を主とする潜水艦に分乗して三田尻沖に集合待機していた。ところが、出撃直前になって、マリアナ方面で敵機動部隊の動きが活発となり、潜水艦は関係者を陸揚げして、出撃していった。

 この作戦は「雄作戦」と称し計画された構想の一翼を担うものであった。昭和19年初頭からの戦局劣勢を挽回するために3個航空戦隊の全航空機(530機余り)を海鷹級の4隻の改造空母に搭載し、上記の特4内火艇を5、6隻の潜水艦に搭載し、敵前進基地を攻撃するというもので、東京の上層部の悲願であった。
 
 「あ」号作戦の結果は出撃した潜水艦にも多大な被害があり、第6艦隊としてもこの作戦を再興するだけの兵力も、気力も失い、竜巻作戦も幻に終わり、3月に古賀長官が行方不明となってから、立ち消えとなったもので、潜水艦作戦の邪道であった。 
 
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