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戦争の終了(8月15日) ・ 関東地区での邀撃
(最後の戦死者)
戦三〇四 斉藤 義夫(302)


海軍少佐斉藤 義夫の戦歴
 
日向 八根(在ラバウル)40期飛学生 呉空 332空 戦303 戦401 戦304
二〇年八月五日戦死 二三歳ー〇月
県立呉第一中学校
父恒彦 母茂子
第三〇分隊の体操体技係



 8月5日正午少し過ぎから、関東地区にP51戦闘機72機が飛来、6日早朝に東部、中部及び四国の中部にB29延400機が来襲、そしてこの日広島に原爆が炸裂した。

  千葉県の茂原基地にあった戦闘第三〇四飛行隊の斉藤義夫大尉は飛来の敵を遊撃するため、五日朝九時半基地を発進して外房州の勝浦沖、今は海水浴やレジャーの地となっているこの地で敵戦闘機と交戦し、僚機と協同しその二機を撃墜したが、自らも被弾し自爆した。
 
 竹田進(昭和19年11月27日比島で戦死)、中島孝平の両期友と共に故郷の呉海軍航空隊勤務を振り出しに、零式戦闘機を駆って連戦し生き抜いてきた彼も帝都防衛の礎として終戦を迎えることなく散華した。
 
 戦争がなおも続いていたとしたら、我々全員次々にかくある運命にあったと思う。斉藤の霊よ安らかに眠れと念ずること切なるものがある。

 ☆家族あての最後の通信 
  七月三日附、郡山宛御手紙本日拝見致しました。只今再び此の地に戻って訓練致して居ます。敵 襲も時々ありますが、免に角実力の練成に邁進して居ます。 先日来手紙を出しましたが御返事がなく、もしや先日の空襲にやられたのでは、と案じで居りま  したが、案の定で全く吃驚いたしました。残念乍ら運が悪かったとあきらめる外ありません。然   し皆様御無事であった事は不幸中の幸と申すもの、此の仇は必ず討ってお目にかけます。 此方隊員一同数次の被爆にも損害ほとんどなく、張切って居ます御安心下さい。
  父上様 母上様

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 この手紙を御家族が受領されたのは戦死後の八月二七日と聞く、自分の身が常に危機にありながら、肉親を思う情にあふれ読む人の胸をつく。