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七月の作戦・夜間の索敵哨戒
(偵察第七〇三飛行隊) 田中俊二


海軍少佐 田中俊二
 
山城 飛鷹 39期飛学生 豊橋空 七〇一空 鹿屋空 八〇一空 偵七〇三
 二〇年七月一二日戦病死  二二歳一〇月
 府立第二中学校 
父(死亡) 母ティ
 第七分隊の遊泳係 体操体技係



 七月二日、呉地区はB29の大空襲を受け、我々の思い出の多いこの町が灰燵に帰した。そして一〇日の早朝から関東地区に大編隊を繰り出して攻撃をかけた敵機動部隊は洋上補給を行ないながら二旬にわたり、日本全土をくまなく空襲し、主要都市に艦砲射撃を加えて去った。
 
  七月一一日大分基地にあった第八〇一航空隊の偵察七〇三の分隊長田中俊二大尉は前出の本州南方近距離に出現した敵機動部隊を索敵攻撃するため陸攻に搭乗し、僚機五機と共に午後八時二〇分基地を発進した。
 
 翌一二日の午前零時一〇分に索敵線の先端に到着し引き返す途中の三時三〇分に ”〇四〇〇宮崎基地着ノ予定”との電報を発進したが、その後連絡を絶って帰還しなかった。その後午前四時ごろ、
高知県高岡郡の久礼山に激突大破し、搭乗員総員死亡している田中機が発見され基地に通知されて初めて田中機長以下の最期が確認された。
 
 当日は、天候不良で雲量一〇、雲高五〇〇米、視界三〇〇〇米と記録されている。基地まであと一息というときこの悪天候のため機位を失したのであろうか、それとも敵伏在の算大なる海面での行動であったから、突然敵夜戦の襲撃を受けたのであろうか。
総員戦病死と認められた。