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マリアナ沖海戦
艦隊の決戦を支援する任務をもつ所在の基地航空部隊の作戦

(第二六三航空隊) 竹石 巌

海軍大尉 竹石 巌の戦歴

 山城 39期飛学生  大分空 神之池空 二六三空
一九年六月一九日戦死 二二オ八月
台湾・高雄中学校 父季敏 母久子
第四二分隊の遊泳係 倶楽部係

 【戦況】  
 大鳳が被雷して旗艦としての機能を遂行できなくなったので、乗艦中の第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将以下の司令部月は駆逐艦若月に救助された後に、羽黒に移乗した。重巡羽黒は、旗艦としての通信能力が十分でないため発進攻撃中の攻撃隊の状況をはじめ指揮下部隊の現状の把握は棲めて困難であった。このような状況で、作戦指揮に支障を感じた司令部は午後五時一○分になって、ひとまず全軍に北上を命じた。
 
 この北上するわが艦隊を迫撃していた米機動部隊はその一部を残して、二九〇度の方向に進んでいた。敵は、ゎが艦隊よりも優速であったにもかかわらず、その位置を誤って判断したためにほとんど近接できずにしまい、二〇日を迎えることになったという。

 第二六三航空隊の竹石 巌は機動部隊に策応してその全力をもって敵部隊をもとめ作戦したが、その兵力としてはグアム島に残留できたわずかの機数に過ぎなかった。
 
 一九日、二六三空その他のグアム島所在の戦闘機をもつて攻撃隊を編成し発進したが、寄り合い部隊でしかも空中集合が日出前であったため、その行動は円滑にゆかなかった。そのため、サイパン周辺の空母及び輸送船に対してはその一部が攻撃したにとどまり、そして残りの大部分は、前述した荒川中尉機等を攻撃のため来襲した敵戦闘機の迎撃に当った。
 
 この攻撃隊には二六三空分隊長の竹石巌中尉がゼロ戦をかつてグアム第一基地から参加し行方不明となった。交戦中被弾午前八時頃自爆したものと認められたが、その最期を確認したという資料はない。
 この竹石中尉は、同隊の「戦闘詳報」によると、五月二六日、六月九日、一一日と連続出撃し、ペリリユー島1空の哨戒に従事していたと記録されている。

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