リンク元に戻る

三、四次多号輸送
 敵機来襲激増

(第二五六航空隊) 石井 恒

海軍大尉 石井 恒

 山城 羽黒 40期飛学生 二五六空
 一九年一一月五日戦死 二一才一一月
 県立安房中学校(千葉) 父(死亡) 母きく
 第一四分隊の弥山係 銃剣術係

  (戦況)
 ブルネーで待期中の駆逐艦浜波と秋霜(原田実)、島風(原出盛之)が第三次の多号輸送に参加することになり、各艦はマニラに進出した。この回次の輸送指揮官の二水戦司令官早川幹夫少将は島風に将旗を移した。
 
 ルソン各地に来攻する敵機は次第に増加し、一一月五日マニラ地区に延二百機以1が飛来した。集結中であったこれらの水上艦艇、特に先着の那智(柴正文)に攻撃が集中されて同艦が被弾沈没し、曙も航行不能となり第四次輸送参加ができなくなった。柴正文は今回も幸い救助され内地に帰還できた。
 
 マニラ地区以外の〜ソン各地にも延二三〇機が来襲した。そのさなか台湾から要務飛行で帰投中の二五六空の石井恒中尉が便乗する九六式陸攻が敵の戟闘機に捕捉されて撃墜され、搭乗員及び石井中尉ほかの便乗者全員が戦死した。

 石井恒中尉は、飛行学生を終って厚地篤彦中尉や岡和男の両期友と共に上海基地に着任し、同方面の海上交通保護作戦及び基地防空に従事していたが、比島戦線が急迫した時点でこの隊からも比島にその兵力を抽出することになり、山崎圭三大尉(六十八期生)の指揮する九機の零戦隊の小隊長として、一〇月一五日台湾に進出して同地でしばらく遊撃戟に参加した。そして二八日比島ニコラス基地に進出し、この日は台南空に要務飛行した後予備機搭乗員二名とともに帰投する途中であった。