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菊水二号作戦

(偵察第一一飛行隊) 金子忠彦
(戦闘第三一一飛行隊)石森 学

海軍少佐 金子忠彦
 
伊勢 39期飛学生 館山空 偵一一
 二〇年四月一二日戦死 二四才一〇月
 県立川越中学校(埼玉)父大書 母美恵子
 第二八分隊の剣道係 遊泳係


海軍少佐 石森 学
 武蔵 39期飛学生 大分空 神之池空 戦一六五 戦三 一七 戦三一二 戦三一一
 二〇年四月一二日戦死 二三オ八月
 府立第一中学校 父直人 母春江
 第四三分隊の馬術係 弓道係

  (戦況)
 菊水−号作戦によって米攻略軍に大損害を与えたと判断され、引き続き特攻作戦をもってこの敵を追撃する計画であったが、天候不良のため延び延びになっていた。四月二日に至り、前述のとおり本田実大尉などの特攻が出撃した。
 
 一二日に菊水二号作戦が決行された。海軍参加機二五四機であったが、未帰還一一四機を出し、そのうち九一機が特攻であった。この日の攻撃は敵の予想したところで、待伏せに会った形となり奇襲というわけにはいかなかった。したがって戦果は予期のようには大きくなかった。
 
 この日に米国のルーズベルト大統領が死亡し、トルーマンがその後を継いでいる。

 硫黄島を中継地とするサイパン出撃のB29による本土への空襲はますます激化し、二二日皇居にも敵機の投弾があって、建物の一部が炎上するという事態にまで追い詰められるに至った。

 来襲する敵機動部隊は、ますます猛威を振るっており、我が軍としては、その所在を偵知することが爾後の作戦遂行に欠くことのできない要件であった。

 金子忠彦大尉
 四月一二日、神園望が戦傷で去り、残った金子忠彦大尉所属の偵察第二飛行隊に次の命令が与えられた。《一一部隊ハ早朝発進、沖縄周辺ノ敵攻略部隊並ビニ列島線南東ノ全貌ヲ偵知、敵機動部隊ヲ捕捉セバ触接ヲ持続、第一機動基地航空部隊昼間特別攻撃隊ヲ以テ強襲、別動隊(百式司偵、夜戦)ニ於テ敵戦闘機ヲ誘導スルガ如ク沖縄附近及ビ機動部隊附近ニ欺瞞紙ヲ撒布……〉。
 
 金子忠彦大尉は、この命令を受け、彩雲偵察機をかって僚機四機を率い午前六時一五分鹿屋基地を発進した。この隊は、《〇九〇〇、空母ヲ含ム機動部隊ヲ発見》、《一三〇〇、一三二〇、一三二五 空母ヲ含ム機動部隊発見(三群空母八隻)》の戦果を挙げており、(未帰還一機〉と記録されている。この未帰還機が金子大尉機であった。

 この頃になると沖縄の飛行場には小型機約二二〇機が集中して、我が攻撃機に対する迎撃も空母機に代ってこれら陸上機が担当するようになっていて、一段と強力なものとなってきた。したがって所在の敵艦船に特攻をかけることが次第に困難を加えてきて、邀撃機隊の制圧がまず必要となった。

 戦三一一の石森学大尉
 一二日に陸軍に続いて三波に分れた各二四機の零戦が出動し、列島線と沖縄泊地附近で敵八〇機と交戦し二〇機以上を撃墜破しまずはその目的を達した。
 この作戦に参加した戦三一一の石森学大尉は紫電戦闘機隊隊長として僚機三三機を率い、午前一一時四五分に出水基地を発進して奄美大島、喜界島上空に到着したとき、敵戦闘機二〇機に邀撃された。
 
 この空戦で未帰還一二機を出し、石森隊長機が午後二時三〇分沖純辺戸崎の北東一〇粁の海上において消息を絶った。戦一六五の分隊長として比島戦線で連戦、特攻の直掩隊長として出動して多数の敵機を撃墜したと同隊の戦闘詳報に記載されている石森大尉は帰らなかった。