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六月下旬の夜間攻撃

(第六三四航空隊) 宮本平治郎

海軍少佐 宮本平治郎
 
長門 39期飛学生 鹿島空 六三四空 偵三〇一
 二〇年六月二六日戦死 二三オ六月
 県立田川中学校(福岡) 父嶋平 母チヨ子
第二七分隊の図書係

  (戦況)
 菊水一〇号作戦

 六月二一日、菊水一〇号作戦が実施された。そして沖純本島では、南部に後退して抵抗を続けていた陸軍部隊も圧倒的な敵勢に追い詰められ、午前四時三〇分牛島満軍司令官が自決した。
 この一〇号作戦を境に、もはや大規模な航空作戦を実施することは不可能となり、漸次本土防衛の 「決号作戦準備」 に移っていった。この決号作戦に備える海軍の航空兵力は、練習機二三〇〇機を含む合計四六二五機であり、その中には「桜花」二三〇機が含まれていた。

 二六日に久米島に米軍が上陸した。この日、偵三〇一の宮本平治郎大尉は水爆「瑞雲」で沖縄周辺の艦艇液間爆撃に出撃した。発進基地は、九州の桜島基地であり、午前零時に発進したがそのまま消息を絶った。
 
 比島に進出した宮本大尉は、一九年一一月二二日以来山三回にわたって連続出撃していたが、敵のルソン島上陸を迎えて、二〇年一月一三日東港に撤収し、その後も商号作戦を支援(二回出撃)しっつ淡水に移動した。そして、三月二七日に沖純周辺の敵艦艇を攻撃した後、古仁屋水上基地に帰着したのである。途中加計呂間島南方に不時着水したが、波浪高い外洋を水上航走で突破し辛うじて同基地にたどり着いた。

 その彼は、在比中に敵のサンホセ上陸を最初に発見報告して長時間の触接をしたため、燃料不足でバタンガスに不時着した戦歴をもっている。
 古仁屋にあっては沖縄方面に一七回連続出動という超人的な活躍をした後、六月一一日佐世保に帰還できたのであるが、長斯間の戦陣の疲れをいやす暇ない初出撃が最期となった。