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アドミラルチー北方の哨戒
    
(ロ号第106潜水艦) 萩原達雄  &  (ロ号第108潜水艦) 山本達雄
 

海軍大尉 萩原達雄の戦歴

 武蔵 扶桑 9期潜学生 イl53潜 ロ108潜
一九年五月二二日戦死 (公報六月二五日)  二二オ
 県立土浦中学校(茨城)
第三一分隊の彌山係 体操技術係



海軍大尉山本達雄
 
伊勢 足柄 9期潜学生 ロl08潜
 −九年五月二六日戦死(公報六月二五日) 二〇オ
 府立第三中学校 父唯平 母しな
 
第五分隊の伍長 図書係 彌山係

  (戦況)
  
 五月下旬、ニューギニアに沿って、ビアク、パラオ島方面に進出する敵攻略軍を哨戒するため、アドミラルチ島の北方5○浬の航路筋に「ナ」散開線と称する哨戒海域を設定し、排水量それぞれ六〇〇トンという小型潜水艦のロ号第108潜水艦(山本達雄)、ロ号第106潜水艦(萩原達雄)、ロ号第104潜水艦、ロ号第109潜水艦(宮本由松)、112潜、116潜及び大型のイ号潜が配備された。
その状況は、多数の潜水艦が一直線上に並べられる形になっていた。

 敵はわが潜水艦が並べられる戦法を十分承知していて、そのうちの一隻でも発見すると、次々に芋づる式にたたきつぶそうとしてくる。この時もこれらの潜水艦が哨区に就こうとするとき既に敵の海空からの制圧が開讐れていた。ブイン輸送に向った前出のイ号謡が発見制圧されたのに関連があるといわれる。

 この対潜掃討部隊のチャンピョンがイ16号潜を撃沈した護衛駆逐艦イングランド号であり、共に九期普潜生出身で、共にトラックを基地として、マーシャルにアイタベ(ニューギニア)に出撃した萩原達雄と山本達雄の両中尉乗艦も相次いでその犠牲となってしまった。
 
萩原達雄中尉の最期

 ロ号106潜は、艦長が宇田恵泰大尉でこの艦が撃沈された位置はアドミラルチー北方、北緯一度四〇分、東経一五〇度三一分である。時は五月二二日であった。同艦航海長の萩原達雄中尉は、六日附でロ号58潜乗組に発令されていたが後任者浜本平治中尉(北方で作戦中のイ号177潜乗組)が未着任のため、そのまま出撃した。
 
 海軍では、転勤発令のあった場合、後任者着任の後退任するのが原則であったが、陸上部隊や大艦では配置によっては一部例外として後任者着任以前に退任することもあった。しかし、潜水艦において、そういう例外が適用されることはほとんど皆無であった。この浜本中尉がサイパンに到達したのはサイパンに敵が上陸した直前であり、不運な彼は陸戦に移行して玉砕している。
 
 五月二二日、イングランド号、レーピー号及びジョージ号の三隻の護衛艦、三日前にイ号16潜を撃沈したこのコンビは、又もロ号106潜を撃沈した。この日本潜水艦は、日本軍の「ナ」哨戒線の北端に配備されていた。午前三時五〇分頃、距離約七浬(十三粁くらい)に水上目標をソナー探知した三隻の駆逐艦は全速力で接近し、これを捕捉した。深夜であったがジョージ号の照射により、短時間ながら潜航前にその艦影を照し出して、それが潜水艦であることを確認した。
 
 ジョージ号が先ず攻撃したが、効果はなかった。次いでイングランド号がヘッジホツグ攻撃を行なった。二分後にロ号畑潜は爆破されてその船体の一部を水面上に現わして直ちに沈没し、一面に油が洗出した。
     
 以上が萩原達雄中尉乗艦の最期であり、潜水艦攻撃の熟達コンビにはかなわなかった。このコンビのため翌二lニ日口号104潜、そしてその翌日の二四日にロ号
川潜、更に二六日山本達雄中尉の乗艦口号l08漕が捕捉され、それぞれ撃沈されている。各艦相近接した海面である。
 
 
山本達雄中尉の最期

 山本達雄中尉は、ロ号106潜の航海長であった。二五日夜の一一時に補給基地に回航途上の三隻の米駆逐艦が三隻ともレーダーで目標を探知した。この駆逐隊の司令はイングランド号だけに戦果を収めさせることにいささか不具合を感じたので、レーピー号に先ず攻撃を命じたとモリソン戦史は記述している。
 
 レーピー号は、攻撃に向ったが、まもなく目標の探知を失ってしまい、やむを得ずイングランド号に攻撃が回ってきた。この艦が探知を得て午後一一時二三分、ヘッヂホッグの二四発を発射し、海面下約一〇〇米に潜伏中のロ号畑潜を攻撃した。爆発が四回ないし五回起り、紛れもなく致命的な破壊音を聞いた。その位置は、南緯○度三二分、東経一四九度五六分、「ナ」散開線の南端であった。
 
 山本中尉も萩原中尉と同じ第九期の潜水学校普通科学生であり、一八年一一月初め卒業してこの艦の航海長を命ぜられ、ラバウルにおいて着任した。艦長は、小針寛一大尉であり、一九年初頭内地に帰って修理を終った後の出撃であった。この潜水艦に次いで犠牲となったのはロ号105潜であった。