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卒業3ヶ月後の初陣で戦死

浅田 実 と 木村三郎




1)浅田実候補生の参戦

海軍少尉 浅田 実
の戦歴
  伊勢、8駆逐隊付(朝潮乗艦指定)
  昭和1833日 戦死、20
  京都府立住吉中学校 
(死亡) 母森田シン
  第6分隊の短艇係 柔道係



「ガ」島及びブナ方面での敵の反抗とそこで示された敵の反撃気勢が強大であることに鑑み、第20師団主力をウエワクに成功裏に輸送完了し、マダン以西の戦略態勢強化の曙光が認められた。
 
ラエ、サらモア地区の強化も急がれ、第
51師団主力をラバウルからラエに直送することになり、陸海軍間に協定が結ばれた。この一連の轆送作載が八一号作戦と呼ばれ、木村昌副三水戦司令官の指揮下で、陸軍6,900名をラエヒ輸送することになった。

連合軍の威力がダンピール海峡一帯にまで増大しつツある当時の情勢下で、海上輸送の安全を図るためマダンに揚陸する案も検討されが、上陸後ラエまで前進するのに数ヶ月かかるということで、ラエに直接輸送することになった。
 
 木村司令官は、駆逐艦白雪を旗艦とし、朝雲(久戸義郎候補生乗艦)、雪風(斉藤高房候補生乗艦)と時津風(堂園利徳候補生乗艦)、荒潮と朝潮(浅田実候補生乗艦),、敷波(立入、大曲、前田孝各候補生乗艦)を率い、2月1日早朝出撃、ニューブリテン鳥の北廻り航路とつた。これを向かえ撃ったのはニューギニアのブナ、ポートモレスビ一を基地とする米・豪の連合空軍300機であった。

2日、1隻の輸送船が来襲敵機に撃沈されたが、船団は西進、ダンピ−ル海峡を平穏理に通って、翌3日(桃の節句)フィンシュハーフエンの南東海面にさしかかった。この時来襲した連合軍空軍爆撃隊の新戦法の「反跳爆繋」により船団7隻は全滅し、護衛の駆迷艦も旗艦自雪、時津風(堂園候補生は生還)、荒潮が被弾航行不能となり、その後各艦とも沈没した。本村司令官も、白雪被弾時重傷を受けたが短艇に乗り移り、艇が舷側を漂流中に旗艦は沈没した。
 
 敷波に移った司令官は、残存駆逐艦
4隻を指揮して生存者の救助に当たっていたが、敵の大編隊北上の情報を受けたので救助を中止し、ロング島沖に避難するため北上。この時、旗艦に8駆隊の司令駆逐艦朝潮か.ら−<我野島艦長トノ約束アリ、野島救助ノ後退避ス>−との司令佐藤康夫大佐の信号があり、朝潮は現場に残った。これが朝潮を認めた最後である。

ロング島北側で来援に駆けつけた初雪から燃料の補給を受け、救助した生存者を初雪及び浦波に移し、両艦をラバウルに先行させた。日没を待って南下した一行が同夜11時から翌朝1.時まで現場を捜索したが、朝潮も認められず、生存者の救助も空しかった。やむを得ず救助を打切って帰投した残存艦艇は、5日朝ラバウルに帰着しこの作戦を終ったが全くの完敗あった。
 
 乗員救助のため敵再來襲下の現場に残った朝潮には8駆隊附の浅田候補生が乗艦を指定されておりこの作戦に初参加した。

「朝潮」最後の電報は午後1時発の<敵10機見ユ>であった。浅田候補生は、司令、艦長と共に消息を絶ち、71期の最初の戦死者で、兵字枝卒業後わずか約3ヶ月のこの日、南溟の地パプアの海識で20歳の若さで散華し、永遠に帰らなかった。
 
 司令佐藤康夫大佐は、この功績により、戦死後海軍中将に特進されたほどで、最後まで艦に残り艦長以下を退艦させた後従容こして艦と運命を共にしたという。





2)木村三郎候補生の参戦

海軍少尉 木村三郎の戦歴

伊勢、
2駆逐隊付(村雨乗艦指定)
  昭和1835日戦死 20 
東京府立第5中学校 
父 周吉 母 よね

  第35分隊の電機係 被服月渡品係


 木村三郎候補生は、同僚の小西哲夫と共に第2逐隊附とし村雨に乗艦を指定されラバウルにおいて着任。
 その後2ヵ月もたたない中にゾロモン諸島での死闘に参戦、初陣が「コロンバンガラ」島輸送であった。

「ガ」島、ブナ地区からの撤退後、ソロ毛ン諸島に駐留していたわが陸軍守備に対する米軍の航空攻撃が一段と激しくなり、反面同地区のわが戦力は低落の一途をたどっていた。
 
 3月2日にラエ輸送の日本船団を撃滅した米軍は、わが航空作戦の低調に乗じ、わが第一線基地への来襲、輸送路の妨害、ラバウルなとの後方基地の爆撃等を漸次強化し、これに索応して敵水上部隊も逐次活発化し、その行動海域を北上させる兆をみせてきた。

ぞのやさきの3月5日夜から6日末明にかけて巡洋艦3隻、駆逐艦2隻をもつて、中郁ソロモンのムンダ島、コロンバンガラ島の砲撃を行ってきた。
 
 「コ」島方面糧食等の輸送に従事中の村雨と峯雲は、
3月5日夕刻ショートランドを出発、ブラケット海峡を通り、べラ沖で「大発」に荷物を移した。帰りは近道をしようとクラ湾に入った直後に、メリル少将指揮の敵に遭遇す。峰雲がメリル隊の初弾発砲を発見して砲戦を下令した直後の午後2時少しすぎ頃、村雨に敵の6吋砲弾が命中、機械室、全缶室に浸水し、1番砲搭は火災が発生した。
 
 峯雲が続いて変針、被弾した村雨の外側を通った時、
敵の電探(レーダー)目標は峯雲に変ったらしかった。同艦は応戦したが敵艦ウオーラ発射の魚雷5本の中1本が命中火災を起し、沈没。航行不能となっていた木村候補生乗艦の村雨も午後1130分沈没した。

両艦の生存者174名は、近くの島に泳ぎ着き、翌朝「コ」島守備隊に収容されたが、村雨艦長、峯雲艦長及び隊付の本村三郎候袖生は共に行方不明となった。
 小西哲夫は、泳いで島にたどりつき、その後久戸義郎の乗艦朝雲に便乗し帰還した。


                                   
(注記)
 
アメリカはこの時からレーダー(日本名称・電探)を使用しはじめ、日本海軍の艦隊はこれ以後完膚なきまでに撃沈され、敗戦の坂を一気に転げ落ちることになった。