海軍兵学校第71期のクラス会『七一会』の解散
平成21年11月
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追加 海軍兵学校第七十一期戦没者慰霊之記 作成 江田島品覚寺に奉納 |
今般七一会の解散に当たり戦没者慰霊の記を留め末長くその崇高な遺徳を顕彰する
特攻戦没者(33名)
この期友達は先の大東亜戦争に臨んで救國の情熱抑え難く自ら進んで特攻に加わり多大の戦果を
揚げ敵将兵の心胆を寒からしめた
回天(2名)
人間魚雷ともいうべき特攻兵器回天を操縦して敵泊地の艦艇に突撃撃破した
飛行機(31名)
爆装した飛行機諸共又は人間爆弾ともいうべき特攻兵器桜花で敵に突入撃破し或いは空中戦で
敵大型機に体当たり撃墜した
その他の戦没者(298名)
特攻以外の298名の戦没者も特攻戦没者同様憂国の情に燃え夫夫の職責を全うしつつ雄雄しくも散華した
この戦没者たちの尊い犠牲は我が国戦後の驚異的経済復興の活力となった 戦後の生存者250名は六百一心の合言葉の下遺族ご一同と共に年年靖国神社での慰霊祭の他かっての海軍士官養成の地江田島の名刹品覚寺に於いても毎年追悼会を執り行って来た 今後は夫夫に永代神楽永代供養法要として継続をお願いしている
平成二十一年六月 七一会
・香蘭社製のネービーブルーの基盤に海軍士官の軍帽の抱き茗荷をあしらった見事な絵皿である。小野蘭二幹事の指導で作成された。
・卒業時、生徒の軍帽からこの抱き茗荷の軍帽をかぶったときの感激は今でも忘れられない。
・絵皿の裏にはクラス会解散後に残る唯一のホームページのアドレスが印字されている。
クラスの連携は兵学校の全寮制に始まった。連帯感、責任感、犠牲の精神、不屈の魂などによって"海軍は良いところだった"という感は強い> と先輩が述べている。
だから、海軍がなくなり、海上自衛隊に肩代わりしても江田島健児だったクラスの団結は『合言葉は六百一心』であり、そして連合クラス会の親睦は終生続いていくだろう。 |
(参考) 「クラス」とは
大和海上特攻艦隊を指揮した伊藤整一中将が兵学校教官時代に卒業する第59期への訓示から |
わが国においては、卒業はその字義の示す如く、業を卒ゆること、即ち成就、成功あるいは安堵を解する風あり。これに反し欧米においてはCOM―MENCEMENT 即ち開始を意味す。この観念の相違は卒業後における努力において非常なる相違を生ず。COM―MENCEMENTなることを高調し、勇ましい門出を祝福せんとす。諸子に期待する所は今後の奉公にあり(中略)。同期生は団結し切磋琢磨せざるべからず。然れども級友は飽くまでも級会員相互即ち内部に向かった働かざるべからず。若し級会が外部に向かって働きかくることありとせば、既に級会の分を超えたるものなり。 海軍は所轄における上下の団結により成立す。級会は各自が公務に励むに当たり内助の作用をなすのみ
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何時であったか記憶がない、呉にて、首席卒業者(クラスヘッド)の田結保主催による最初のコレス会が71期、機52期、経32期の有志によって行われた。
コレスの今田実君保存の資料を見せていただいたところ、管理者(佐藤清夫)も参加していた。 田結君の妹・村林小枝子さんが持っている遺品の中に 『七五三会報・第一輯』 がある。71期、機52期、経32期の7、5、3をとったものである。これがクラス会の嚆矢であろうが、その後どのようになったのか不明である。
しかし、海に、空に、陸にでの戦陣の寸暇に、2人よれば、場所は何処であれ、「クラス会」と称して気勢をあげたものであったことを会員の諸兄は回想している。 |
(2) 戦後、昭和26以降、毎年靖国神社での慰霊祭実施 |
クラスの一人だけになっても続けると申し合わせた。しかし、当時は老年期におけ体力の状況、罹るであろう病気については予測できなかった。物故する期友の状況は勿論計算外であった。
江田島入校後70年近くなった最近の期友達は歌にある 「杖を頼りに一日がかり、会いに来ました九段坂」 の常態では、また期会幹事の事務的負担増加では、そうもならないであろうということにいたり、21年をもって終了せざるを得なくなった。 |
毎年秋の11月下旬に実施している。創設当時からのクラス幹事金丸光君が上野の精養軒の支配人をして関係で同ホテルで続けていたが、会員の老齢化により、ご夫人の介護による、杖を付いての参加も増え、上野駅からの道のりが殊のほか長く感じ、平成17年の秋の懇親会から新橋駅前の第1ホテルに変更され、実施された。
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(4) クラスからの出版資料
(非売品)
国会図書館に納入済み |
第71期家族名簿
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卒業時配布 |
学校当局作成 |
全期友の家族構成
海軍省に報告 |
同期の桜 シリーズ |
同期の桜海兵71期 |
昭和50年5月27日 |
佐藤清夫執筆 |
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続同期の桜海兵71期 |
昭和60年5月27日 |
寺部甲子男編集 |
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続々同期の桜海兵71期 |
平成7年8月15日 |
代表・湯野川守正 |
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581名の全航跡
(生と死の記録) |
佐藤清夫執筆 |
この「ホームペイジ」の原資料 |
似顔絵画集
『喜寿の群像・157名 』 |
平成16年5月27日 |
期会協賛
佐藤清夫画筆 |
生存期友の似顔絵と回想掲載 |
駆逐艦配乗の27期友の敗戦記
『遥かなる回帰の』” |
平成16年9月1日 |
71期駆逐艦部会
佐藤清夫編 |
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ホームページの立ち上げ |
17・12・21 |
佐藤清夫がクラス会での席上、内容の概要を示し、出席者全員の賛同をえた |
ホームページの
継承者決定 |
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戦争末期に瀬戸内海西部平郡島で戦死した駆逐艦梨水雷長原田盛之君の甥ごさんで京都の宇治市にお住まいの原田佳明さん(ホームページ作成の専門家)からの申し入れがあり、次世代への移行案がほぼ内定している。 |
題名の変更について |
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後世の読者に理解しやすいように『海軍兵学校第71期』としたい。時期は未定である。 |
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