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 「愛児の戦没地は今」 愛児の戦没地を弔追悼記
      
故海軍少佐木原俊秀の父木原正一記  昭和34年9月31日

 
 俊秀の3年忌の法事を済ましまして間もない昭和22年の春、思いがけなきお方から <悲壮な、御戦死を、まのあたりに見て余りにも痛ましく、その地点へ木碑を建て、以来香気を供えて三年忌の法要も致して御冥福を祈っている。定めし御両親も御在すならむにと申しおりしところ、この度娘婿が復員して調べてくれた結果、貴家の御子息なることを知ったので御通知する次第。もし来られるならば、水戸駅で下車し・・・。自分はここの区長を勤めておるものである> といった内容の御手紙で御座いました。

 戦死の公報は茨城上空において戦発とだけでありまして、それまで戦没地のことなど別に気に留めていませんでしたが、この御親切あふれる御知らせを戴きますやすぐにも飛んで行きたい程に思いましても、区長様の御心適いの様に当時はまだ何も彼も極度に不自由で塩さへ楽に手に入らぬ時分で、汽車に乗るにしましても切符も容易に写えぬばかりでなく、窓から乗り降りする有様の頃で、何分遠路のことではありますし、思案に余り、いつ行こうか、いつにしようかと毎日そのことばかりに気を揉んで何も手にっかぬ有様でありました。

 念願がかなっていよいよ爺婆、昭和34年9月31日午後、下関発東京行の車中の人となりました時は、誠に感無量で御座いました。翌110月1日午前東京駅着、その足で靖国神社へ、午前中に昇殿参拝をに済ましました。翌日に大雨の中を区長様の御健在を切に念じつお昼前水戸に着きました頃は漸く小降りになり、前田方面行バスの出るのを待合わせます中に雨もやみ漸くバスが出ました。
 ・・・・・ 土地不案内のところ親切な御婦人の案内で愛児の墓所にようやく到着した。
 
 俊秀の基は、この家の裏の道を隔てた山裾にあり、道から二段程土を削った上り段で1坪半程を竹矢来で囲んであり、その奥寄りの中央の土俵頭に木枠が建っており、お供えして戴いた塔婆も4・5本木枠と一緒に束ねてあり、あたりは草木が鬱蒼と茂っておりますが、柵内に草一本生えていませず、新鮮な御花が供えられ木碑の前は御線香の燃えさしが一杯でありました。この何とも有難い光景を目撃しました瞬間、ツーンとこみ上げてもう有難涙が止めども御座いません。泣き泣きみます木碑の字こそ古びて読みとれませんが、塔婆の字は木原大尉の霊と判然と読みとれました。

 何時の間にか本家小山様の奥様も出て来ておられ、人前もなく爺婆が声を上げて泣き暮れておりますのを見て暫し傍で貰い泣きされる有様でありました。モチを包んで来られた新聞紙を燃やして、おつけなさいと、うながきれて、漸く我に返ってお線香を受取り、皆様と共に分け合うて供え、先づ私どもが水を墓標へかけたあとで御自分達もかけて下され、全く至れりつくせりの御配慮で御座いました。
 ・・・・・ 柵の外を見ますれば、替えたお花が捨てられたもので一杯で、それを見てまた感極まってむせび泣くので御座いました。誰があげるともなく季節季節の花が萎れるひまもなくその様にして替えられてあります。花筒にしても同様ですが、この分はつい先達て分家の小山様の御子様が取替へて下きったものとのことでありました。

 私どもはいまだに先祖の墓所が福岡県の大牟田市にありまして、年に一度か二度の御墓詣りさへ稍もすれば怠ることさえあります状態を思い較ペ、何という勿体ないことでと、更には何とも申し訳ない、ばちあたりの話しでありますが、14、5年も御手紙一つ差上げず、今頃出し抜けに訪ねて行っても<その御墓はこの辺りで御座いました>といった草茫々の情景を車中でふと想像して見たりした愚かさを恥入り、漸悔に堪えぬので御座いました。そして先づ区長様のことを御訊ね致しましたところ、何と又悲しいことに御健在とひたすら御念じ申しておりました甲斐もなく、既に先年の春76オで御他界なされたとのことにて、何とも御悼ましく如何ばかりか落胆致しました。
 
 一度お目にかかって御礼を御詫びをと思いつめていましたのに、せめて2年程早く参っていたらと悔恨の情過る瀬なくまさに断腸のおもいで御座いました。

 菅谷様をお訪ねしまして御母堂にお目に掛りました瞬間、せきが切れたように涙が溢れ出て参りました。婆奴も同じ感激で御座いませう。2人共、ただ鳴咽で言葉が申し上げられません。感胸に迫り仏様へ御詣りして一層せりあげ、暫く泣くばかりで御座いました。

 戦死した当時の模様や色々の御託しを承りましたが、中でも奥様が、 <お爺様はふだんでもよく木原大尉のお墓のお世話をなされていましたが、特にお盆や春秋の御彼岸には家のお墓のことは私共に任せて御自分はひたすら木原大尉の御基掃除に努められ、亡くなられる年迄それを続けられました。更に亡くなられま2日前で御座いましたが、私達家の者を皆枕辺に集められて、自分もこの度は、とても元気になれそうに思えないい。就いては吾れ亡き後は木原大尉のお墓を皆ん宜しく頼む。草花でもいいからお花を絶やさぬ様にとの御遺言で御座いました> との御話には特に強く胸をうたれ、御先代様の限りなき宏大な御厚恩に感謝致すばかりで御座いました。
 
 その中に御坊様の見えられる時刻になり、奥様と同道小山家に向う途中でのお話しで、俊秀は今のお墓の50米程奥の山の中に墜落したのだそうですが、道端に建てておけば通りすがりの人でも詣って戴けるだろうし、香気を供えるにしても楽だからとの御心遺いから、彼の子の血液で染まった土を全部さらて、現在のお墓の下に葬って下されてあるのだとのことでした。その様にしてお墓ができて、お爺様の発起で部落で慰霊祭祭を行うことになりましたが、この本道は前田部落へ通じておりまして終戦当時は大変悪い道でしたので慰霊祭を行う前にこの道をよくせねば請って下さる人々も大変だろうからと、お爺様がそれはそれはそれは一生懸命になって役場へ運動されまして、オート三輪で何十台砂利を入れられたか知れませんでした。お蔭で本道だけは、こうして、あまり悪くはありませんとのこと、見るにつけ涙にむせぶばかりで御座います。その時の慰霊は、役場、警察、婦人会の方々も参加されて厳かに取り行われた模様で御座います。
 
 やがて御住持の長い読経が済み、一同御焼香下さいまして、皆様と一緒に小山家へもどりますと、お膳が整えられてありました。おいで戴きましたどの御方も誠に親しみの溢れる方ばかりで親元か兄弟の家へでも帰ったような懐しさを覚え別れともない気持で御座いました。俊秀の墓にしましても、彼の子の遺骨には小さい紙片が1枚あっただけで当方の御墓に何も納まっていませぬのに較べ、彼の子の血液で染まった土が葬ってある現地の御墓に自然親近感を覚え何となく離れ難く思うので御座いましたが、一週間の休暇を戴いて出て来ていますのでゆっくりもならず、翻って一刻の後にはこの懐しい方々とも壊しのお墓ともお別れせねばならず、そして、おそらく永久のお別れになるのだろうと思えばただやるせない程悲しいので御座いました。

 小野清様とおっしやる方がお墓の地主様だそうで、今日迄の地代をとって頂き、なお今後とてもこの儘御世話にならねばなりませぬので、一応そこを2x坪なり3坪なり御分譲願いたい菅谷様を通じてお願い申しましたところ、小野様は、とんでもない、私はあゝしてお国のために命を捧げられた木原大尉の為に最初から喜んで提供しましたもので、殊に僅かあれだけの所を、地代とか分譲か、そんな御心配は微塵も要りません。今後五百年も七百年もの先のことは御請合いできぬかも知れませぬが、子の代孫の代まではあすこへ木を植えたりする様なことは誓って致させませぬから、どうぞ御安心下さい)とのことで、でもこの儘では余り御言葉に甘え過ぎます様で私の気が済みませぬ放と薄謝を包んで渡して戴こうと致しましたが、結局それも御受納下さいませんでした。

 皆様はそれぞれ当時の追憶話や、故人菅谷翁の御徳をたたへられての御話しを御聞かせ下され、私共爺婆は只感じ入るばかりで御座いました。そうして御名残りも尽きませぬ儘、皆様も御帰りになられ、切ない懐いで御暇乞を致しました。 
 
 小山家ではいつの間にか私共の為に風呂までわかして下さって、今日は是非共御立ちになるのなら今度の2時何ぼで行かれないと、その次ぎでは知らぬ所へ訊ねて行かれるのだから先で遅くなってはいけないから、
 ・・・・ 早々にお風呂の御厄介になって帰り支度をしながらも惜別の情に心も暗く、いつの日また御目にかかれるやも期し難きを思えば一層せつのう御座いました。せがれの御墓にも同じ思いで切ない別れを告げ、小山家の奥様方がバスの停留所迄、菅家様宅からお米や栗を、小山本家から豆類を沢山、御土産に下されましたのを背負ったり、私共の手廻りを提げたりして御見送り戴き、終始感謝感激おく能わず息様で涙の乾くひまもありませんでした。(以下略)