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教育参考館の戦没者銘牌に想う:
:二人の女性紹介 
(『同期の桜海兵71期』より)


  もと海軍兵学校には明治以来の英霊の銘牌があり、これを仰ぐ人々に深い感銘を与えていたが、戦後破棄された。3年有半にわたる関係者の熱意と努力の結晶で、戦後20年ぶりに再び江田島にある教有参考館に蘇ることとなり、昭和41年4月吉日、兵学校52期にあられた高松宮殿下と同妃殿下の御臨席を仰ぎ、除幕式と記念式典が厳かに行なわれた。
 太平洋戦争の期間を通じ、海軍兵学枚には我々71期から77期までの海軍生徒が在校した。その中、74期生までは卒業して直ちに第一線に赴き勇戦奮闘し、多くの青年将校が多くの先輩と共にお国のため命を捧げたのである。それは68期生を頂点とするもので、次の表に明らかなとおり戦争というものが常に若者の犠牲において戦われたこと物語っている。

期別 駆逐艦の職務 卒業数 英霊数

60期

駆逐艦長クラス 127  47柱  49
61期 116  61柱  52
62期 125  69柱  52
63期 124  69柱  56
64期 160  80柱  60%
65期 187 107柱 66
66期 219名 119柱 64
67期 240名 160柱 62
68期 288名 193柱 66%
69期 分隊長・科長クラス 343名 216柱 65%
70期 432名 285柱 66%
71期 581名 331柱 57%
72期 625名 335柱 54%

73期

分隊士・通信士クラス 301名 282柱 31%
74期 隊付き航海士クラス 1024 17柱  
75期 繰上げ卒業 3370名 3柱  
76期 在校中 3570名 3柱  
77期 3771名    
78期 4048名    


 この大戦に尊い生命を捧げた陸海軍将兵は実に260余万名であり、そのほか内地また外地で戦火のため亡くなった一般邦人の数ほ数えきれない。その中でその最期を顕彰された特別の勇士は一握りに過ぎず、ほとんどは名もなく死んでいった。生き残った同期生たちは戦い終って第二の人生に踏み出し、今や社会の中堅をして大いに活躍しでいる。これらの同期生が亡き戦友の武勲をしのびその英霊の名前を秋芳台産犬理石に刻んでこれを顕彰したのである。
 
 海軍中将で我々が生徒時代の監事長(教頭)であった寺岡謹平氏の筆になる戦没期友の名前は、3面ある中の左側面の最上部に見ることができ御遺族や我々期友がこの銘碑にぬかずけば彼らは静かに語りかけてくれる。 除幕式に参列した戦没期友の御遺故と生存者は171名であったという。



江田島での慰霊祭で銘牌の前で献花する梨本徳彦さん



 この銘牌にまつわる2人の女性を紹介したい。

 
 
故宮ノ原安男君(戦死時大尉、イ号165潜水艦乗組、20年7月マリアナ東方洋上で戦死)の実母山本末さんがその時の感激と愛する亡き息予に奇せる追悼の思い、そして現在の心境を記念式典報告書『墓標』に次のように寄稿された。
 
 この度は銘牌竣工式典にお招き下さいまして有り難うございました。ご丁豊な慰霊祭を挙行して頂きまして有難うございました。ご丁重な慰霊祭を挙行して頂きましたことも」併せて皆-様の御真心に対し深く感謝申し上げます。皆様のご誠意有難く喜び参列させて頂きました。あの様に盛大に厳粛に行われまして、英霊にもこの厚き友情何んでとどかずにおきましよう。尊き人の誠に今更ながら強く打たれ感涙にむせびました。交通万端のご配慮、ご尽力等すベて行届いたおもでなし、まことに有難く再び訪れる機会もなきものと思いし江田島の地をふむことの出来きましたこともなつかしき限りでございました。
 
 文字通り山紫水明のあのよき環境の下に3とせを純情な青年が心素直に一すじに国を憂い,空に海にゆきました姿は何にたとえようも無く尊いものと思われます。あの当時の青年のゆく道はあのコースを選ばずにはおられない国情でございました。私は陸士、兵学校と志望する息子に一線に立って戦うばかりがお国のためでない、国内にあって重要な職業につく事を考える様申しました時、《 お母様は今僕を引きとめるけれど、その内必ずお母さんが止められないときが来ると思う。それ故にぜひ兵学校の教育を受けさせてほしい 》と切に頼みまして入校したのでございます。

 《 空ゆくも水ゆくもおなじ大君のみいくさなれやわれゆかん 》と、遺書にございまして神戸に預けてありましたとランクの中にありました。20年6月14日神戸発との事、後に同期の方から伺いました。同7月29日、西南太平洋で戦死しでおります。イ号165潜だったと思います。

 
戦後は職業軍人などという言薬に、私達も苦々しく感じました背様におかれましても、さぞあの当時は言葉に表せぬ苦しみをなめられたことと察しあげます。すでに20年を過ぎ、若い層の国民から戦争そのものを忘れられそうな昨今でございますのに、名期友を思う切なる皆様の御真心がこの度の式典の起りと承りまして何と御礼申し上げようもございません。本当に有難うございました。生きるも死ぬるも紙一重と申しましようか、運と申すより致し方なくその当時は書き暮らしたものでございますが、年月は有難いと申しましようか、忘れるわけでございませんが涙をこぼさず人に語れる様にになりました。それにその立場でなければわかってもらえぬ人に語る事のむなしさもわかり、自らをはげまして亡き子に代れよのためになる家庭であろうと努力致す明け暮れでございますが、この度は立場を同じくする遺族の方々とお目にかかり心ゆくま語りあいました。
  
 帰路は広島を見物いたし、広島の原爆の記念公園をたずねました。ご手配下きいました臨時列車に乗りますまでゆっくりやすみまして、車中もよくやす身11日午後5時帰宅いたした次第で、早くご挨拶申し上げねばと心にかかりながらおくれまして申しわけなくお詫び申し上げます。重ねて厚く御礼申し上げます。  かしこ

昭和41年秋のことである。 江田島の旧海軍兵学校に、一人の女性が東京からたずねて来た。

 71期の「彼」との秘められた青春の思い出を胸に抱いて、彼女は、和服のよく似合う、知的で、つつましやかな容姿を真っすぐに参考館に運んだ。ためらわず階段を登り、銘牌の前に歩み寄った。
 
 彼女は、参考館の遺品室に歩を移した。兵学枚出身者のクラス別の与真が、回転式の写真架にひっそりとかかっている。彼女は、写真をくるくると回しながら、あの入のクラス兵学校71期を探した。数百人の少尉飢補生を、一堂こ並べて撮ったこの写真は一人一人が豆粒ほどに小きく、その中からあの人の顔を探し出した時は、すでにあたりは薄暗い。秋のタベであった。
 
 《 御遺族の方でしようか? 》  閉館の時間らしく、各扉をしめて歩く中年の警備員が、遠慮深げに彼女に問いかけた。
 《 いえあの......ちがいます 》  私ほあの人の遺族だとは認めらいない。他人に祝福される前に、2人の愛は化石となてしまった。そして、彼女の心を2度といやすことのできない深い悲しみを焼き付けている。
 
 彼女は、参考館を出る前に、もう一度銘碑の前に立ちよった。あの人の名前を見つヾけるのだった。


 
石に刻まれた文字は、沈黙の海軍の伝統を伝えてか一語も語らない。だが、そこに刻まれた文字の一つ一つに、私たちは戦争の中に青春をささげつくした人間のドラマを読取ることができるのか。