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駆逐艦野分を追って1万キロ(横須賀〜シンガポール間往復)」
戦時下、下士官兵の赴任状況の実態 (川越市・元海軍上等水兵小林滋二)

 私、小林滋二元一等水兵は、昭和18年5月に徴兵として入団、海兵団教育を終了と同時に、海軍対潜学校の第11期普通科水測術練習生課程に入り水中聴音機の聴音技術を教育されて、翌年3月末に卒業と同時に当時最新鋭の駆逐艦野分に乗艦を命ぜられました。
 
 しかし、6ヵ月の間「野分」の行く先を追い、行き違い、ついに着任できず、敵潜水艦のウヨウヨする海路を他人の船で居候をし、固有の戦闘配置を持たないで不安のまま、半年かかつた8月に、出発地の横須賀に帰って来ました。2ヵ月後の10月末に同地で艤装中の駆逐艦蔦乗組に再発令されました。この艦で終戦を迎えましたが、一緒に卒業した同期の戦友の半数以上を失いました。
 
 
『駆逐艦野分物語』という書物を読んで「野分」の詳細な運命を知り、戦後50年以上たって自分の運命の不思議さを身をもって感じました。著者の元野分航海長佐藤清夫んから頂いた『野分戦没者銘々伝』<厚生省が所管している野分戦没下士官兵200余名の履歴をコピーした>によると、水測員長は古い下士官であり、その部下の水測員は1人の下士官を除き、乗艦したばかりの若い水測兵で、私より1期先輩の第10期の千国隆章、平沼定次郎、島田芳男各1等水兵と第12期の高橋義吉1等水兵の名前が載っていました。彼らは皆志願の所謂少年水測兵で15〜6歳でしたが、私は彼らと同年兵ですが徴兵でした。
 
  佐藤さんは、マリアナ沖海戦に惨敗し横須賀に帰って来た時期、「野分」に発令があった私が着任しないので、12期の高橋義吉一水が代わりに乗って来たのであろう、と言われた。
 
 戦時下、行動が定かでない配属予定艦を、陸上司令部の指示のまま、赴任旅行した下士官兵は以外に多かった。そこで繰り広げられた途中での苦労、その果ての海没事故に巻き込まれた犠牲者の状況は、華々しい戦闘の影に埋没しだれも語られていない。

 戦闘ならともかく自らの生死も人任せでは犬死であると誰でもが恐れた。私の場合も、籍は「野分」にいっているので何処でも居候、日本の軍隊でもこんな兵隊もいるのだと初めて体験し、同じやられるなら「野分」に乗ってからなら納得できるけれど自分を確認できる書類はどこにあるのかなと心細い限りでした。私はシンガポールでのすれ違いで今日まで生き延びました。
 
 しかし、私の交代者高橋さんは、レイテ沖海戦後の翌日(10月26日)の早朝、敵水上部隊により撃沈され、全員戦死した「野分」と運命を共にしていたのです。だから、私の今日を只の運命だけで片づけてよいものやら、複雑な気持ちです。

1 野分を追って、シンガポールへ

  私が「野分」に発令になった時、『駆逐艦野分物語』によると、同艦はサイパン島への陸軍部隊の輸送に従事後、3月28日に横須賀に帰り、4月6日に呉に向け出港していたのですが、海兵団補充部は、「野分」が既に横須賀を出港しているとして私に呉で乗艦するようにと命令されました。先の千国、平沼と島田の各一水は私が「野分」に乗艦命令を受けた少し前の卒業・乗艦、これは順調に着任していたようです。私の後任高橋一水については当時は勿論知る由もないことでした。

@呉に行ったところ

 呉に行ったところ、「野分」は在港しておらず、下関に行き巡洋艦香椎に乗艦し、昭南(シンガポール)にある「第十特別根拠地隊」で乗艦せよと指示されました。しかし、このとき、「野分」は佐伯湾で空母部隊と合同、次期作戦のため、訓練・出撃準備に従事中で、5月11日にタウイタウイ艦隊泊地に向け出港していたので、呉人事部の調査が十分であったなら、私のその後の苦労はなかったが、反面別な運命が待っていたのです。

A下関で

 下関では南方への弾薬、武器、陸軍兵士、従軍看護婦、それに民間人の女性が多く乗艦していて少年兵に奇異に映った。海上には一杯の船、岸壁には続々と集結する陸軍兵士。口癖に海軍さんお願いしますよと云う声がいまでも思い出されます。比島、ボルネオ、シンガポール方面に向かう輸送船団であり、客船、貨物船等20数隻。護衛艦は「香椎」を旗艦として海防艦、駆潜艇等、総勢40隻からなる大船団でありました。出港して、豊後水道を南下していった時、「対潜戦闘配置に就け」で、初めての艦船勤務の若い水測兵である私には、まだ日本領域だと思っていたので驚きでした。速力は鈍く、一番遅い船に合わせるので大変、外洋に出たら360度全て水平線、初めて海を見たものにとっては奇妙でした。春の東シナ海は静かでこれが戦場なのかなと信じられない程でした。
 
 私は便乗とはいえ正規の水測術を受けているので、水測員としての当直に当らせられた。艦橋からの指令は敵潜一群の追尾を受けているとのことで、初めて就く実戦配置、未経験の私にとってはこれだけの艦船のスクリュウ音の中から自艦の音が痛い程耳に飛び込んできて、その中から敵潜の捕捉は至難の技で、日中は電動音、夜間はジーゼル音を聞き分けるのは大変である。水測兵は常時狭い水測室でブラウン管を見据えレシーバーを耳に当て音だけの戦場です。

B台湾近からマニラ港経由シンガポールに到着

 台湾近くまで行ったとき、敵襲を受け、一番大きな商船がやられ何隻か犠牲になった。「香椎」からは水上機が発進。間もなく帰還して水上機を吊り上げ、船団を建て直すために台湾の基隆に入港しました。陣容を整へ、マニラに向け出港後間もなく、私は生まれて初めて南十字星を見、いよいよ南洋に来たと感じました。マニラに入港した時コレヒドール島の側を通過、シンガポールではセレタ軍港に入港。ここで退艦、十特根に仮入隊。約1カ月の間、「野分」を待ちながら、連合軍捕虜の作業監視や飛行場建設作業の監視に当りました。

 野分をおって、内地に

 7月の半ば急に特務艦聖川丸に乗艦を命ぜられ、内地向け船団の護衛で「野分」を横須賀で待てとの命令でした。この船団も順調に行けば半月後に内地に到達出来ると司令部は考えて発令したのでしょう。シンガポール沖に出てみたら航空母艦「海鷹」、タンカー船、日本の戦略物資を満載しての大船団でしたが、護衛の陣容から見てとても無事に日本に戻れるようにも思えず、同じやられるなら「野分」に乗ってからなら納得できるけれど自分を確認できる書類はどこにあるのかなと心細い限りでした。
 
 この時期、連合艦隊は6月19日のマリアナ沖海戦での決戦に破れ、沖縄中城湾に引き揚げ内地に帰っていたのです。しかし、「野分」は空母の直衛として参加したのち、低速のため南比島ダバオに足止めを食らっていた戦艦「扶桑」を内地に帰還させる貧乏役が回ってきて、長駆してその任に当たり、約3週間遅れて7月15日、横須賀に帰還したそうです。船団が事故もなく予定どおりだったら私の「野分」への着任は間に合ったでしょう。

 ここでの滞在では、気は焦るが待つしかない日時が空転するうち、内地向け出発する「鎌倉丸」の水測員として乗艦を命ぜられました。初めて見る豪華客船に乗り込みましたが、防禦用の聴音機だけです。沖縄付近で台風に遭遇して、南に向け避行中もうねりも高く、台風が通過すると後を追うように長崎港に入港。居候の他人の船はもうこりごり、正規の兵員でないため給料も貰えず、親分なしの独り旅、汽車の乗車証だけ発行されるので、わずかに持っていた小遣でやっと8月、懐かしの横須賀に戻り仮入団しました。防暑服の夏姿の奇妙な兵隊でしたが、幸い同年兵に巡り合い一式調達してもらえたので、やっと海軍軍人に戻れました。

 司令部に行き、乗艦できなかった旨報告すると、「野分」は必要な要員の補充を行い、8月3日発で、佐世保経由シンガポール南方のリンガ泊地に向かっているので、「野分」が作戦から帰えるまで待てと云われ、又、海兵団で待機させられました。

3 駆逐艦「蔦」に乗艦の命令をうけ、私の赴任旅行は終わった

 翌年1月末ころ、同地で艤装中の駆逐艦「蔦」に乗艦の命令を受けまして、初めて自分の艦に乗り込み、訓練のために呉に向う途中、「野分」が沈没をしたことを知りました。

 このように、「野分」に乗艦命令を受けながら乗艦出来ずにその後を追った経緯、幻に終わった私の乗艦野分には特別な思いを持っています。私が正式な水測術の教育を受けた貴重なマーク持ちであったためであったでしょうか、神の恵みであったのか。戦後半世紀にわたる私のもう一つの自分の姿を見たようで複雑な気持ちです。


4 宮城県亘理町にある高橋義吉水兵長の墓石に花を添え

 平成10年、宮城県亘理町に故高橋義吉水兵長のご遺族をお訪し、状況を報告。太平洋をのぞむ小高い墓石に花を添え、50余年前のことを語りかけまして今日まで墓参の遅れた事をお詫び心より手を合わせました。苔むす墓石を前にして複雑な心地でした。高橋さんのお兄さんもガダルカナル島で17年に戦死された御一家でした。このように墓参を果たので戦争への心のわだかまりが取れ、家内にも戦争の話をする気が出てきました。


追記 

  『野分物語』は、川岡浩さんという倉敷市にお住いの36歳になる歯科技工士さんからを頂きましたこの方の故郷は、終戦時に私の「蔦」と佐藤さんがその後乗った「桐」と、他に「花月」が敵航空機からその所在を隠すために擬装疎開していた柳井市阿月相の浦の海岸のある部落のとなりで、現在、そこに父さん、祖父さんが住んでいるそうです。

 お父さんは、当時、小学校1年生、友達になった兵隊さんに連れられて、よくこの軍艦に乗せてもらったという幼い経験があったとか。お祖父さんもこの避泊のことを良く記憶していたそうですが、疎開の軍艦がどのような名前であったか分からなかったと聞いていた。この『野分物語』を読み、その概要と艦の名前を知ることができたという。川岡さんは、それまでに戦争末期の駆逐艦に「回天」を搭載していたことに大変興味を感じていたので、「桐」と「蔦」に回天を搭載していたことを知り、私に搭載、投下、発射のことを問い合わせて来たのです。そのような関係で著者の佐藤さんと面識を得た次第です。この著者と私がこの地で隣り合わせであったことは、当時まったく知りませんでした。ここにも不思議な縁があったのです。
 
 


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