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71期戦史 「同期の桜」 シリーズ

1 『同期の桜海兵第71期』
 
(昭和50年5月27日発行 ・ 佐藤清夫執筆) 


 古今末曽有の太平洋戦争に青春をささげ戦没した期友は331柱にのぼりますが、戦没期友最後の配置をその職種別に分けますと次のとおり。
水上艦艇 72柱
   潜水艦 56柱
   航空関係 171柱
   陸上戦闘関係 22柱
   戦病死者 10柱
 
 
戦没の地は、ほとんど太平洋全域にわたっており、その多くは今も墓標もないまま、空に、島に、そして海底に眠っている。昭和14年12月1日に601名が入校、そして3年後に江田島を卒業したのが581名でありましたから6割近くの期友が20歳を少し過ぎた花も蕾の青春を祖国の危機にはせ参じ散華したことになります。ここに亡き期友にあらためて深い追悼の誠をささげる。

 昭和20年8月15日終戦となり、敗戦の身にその惨めさを一入感じて故郷に復員したのは253名、これらの期友はそのご約30年、厳しい世の荒波に耐えつつ今日に至り、今各々その所を得で活躍中でありますが、その間不幸病にたおれ戦病死と認定された3名及び自衛隊奉職中公務に殉じた2名を含めて17名の多くが故人となった。もうお互いが60歳を2、3歳過ぎ、当時の御遺族が御子息を失った心情を十二分にお察しできる年代となりました。

 その御両親も御子息の戦没状況を知らないまま故入となられる方が多くなりつつあります。1日も早く何とかその武勲を明らにしておきたいと念願しながらも、職務の片手間、個人の能力の限界を感じつつ細々と資料の収集に努めているうち、心ならずも15ヵ年の歳月を費してしまいました。幸いここ数年の間に防衛庁防衛研修所戦史室の公刊戦史叢書も多く発行されて執筆作業が進み、また多くの期友の温い御支援を得て、十分とは申せませんが何とか纏めることができた。

 他のクラスでは既に立派な追悼文集を出しておるむきがありますが、この記録は単なる追悼文集ではなくて、次の2点で多少趣を異にしています。その第1は、この大戦に参戦した我々が終始敗戦の中でいかに戦ったか、必勝を信じた多くの期友が祖国に尊い生命をささげた作戦の背景とその任務を戦争の経過にしたがい、彼らの3加した作戦、戦闘にスポットを当てて記述してみました。
 
 この点からみるとこの記録は「ガ」島以降の我々71期の太平洋戦争概史となり、戦没期友331柱の戦闘概報となりましよう。第2の点は、これら戦没期友の人となりをその中で明らかにするため、彼らの略歴、遺書、手記、遺影そして御遺族の手記、生存期友の回想、追悼を収録した。

 その構成と主な資料は防衛研修所戦史室が公刊している戦史叢書の関係版を参考とし、戦没期友最期の詳細は期会誌、第2次大戦米国海軍作戦年誌、第2次大戦米国海軍作戦史(俗称モリソン海軍戦史)、戦史室所蔵の戦闘詳報、帰還者報告等の資料により、またこれを補うため1般の出版物の記録をとらせて頂きました。略歴は卒業直前(昭和17年11月)発刊の名簿『海軍兵学校第71期名簿』と旧海車の辞令公報から、遺影は江田島の教育参考館保管のものによった。

 御遺族の皆様にとって、30年たった今日初めて知る真実があるかも知れませんし、同じ戦闘、関連した作戦で共に戦った期友があったことを知って頂けると思います。そして何という艦長、隊長のもとで、どのような部下と1緒であったかを知って預けると思います。さらには、生存期友にとっては苦しかったが与られた任務を捨身で遂行打した青春のすべてを懐しく回想し、戦没期友を追悼する資料となれば幸いである。

 このような記録作成の仕事は、私にとって極めて不慣れな経験であり、意を伝えるに十分でなく、表現上の配慮に欠けるとこも多く、また細部について事実又は推定に間違いがあるかも知れないかと虞れるが、そのような点につきましては私の意のあるところに免じてお許し頂き、正鵲を期するためぜひ資料なり御所見なりをお知らせ頂きたい。

 昭和32年度期会幹事となった
寺部甲子男君は、「古い友情を取りもどし、いつの日か手を取り合って語り合うよすがにもせん、と彼ならではの立派な期会誌を我々に提供してくれ、その中に『わだつみの記』シリーズなるものを設け、亡くなった期友の戦死状況を順次明らかにし始めた。その途中で転勤となった彼は後任の幹事に、生存者の義務としてその完成を申継いで海上勤務に赴いた。このことを期会誌で知った私は何とかしてみたいと3冊の大学ノートに戦没者を戦没順に整理したのがこの「記録」のそもそもの初めである。

 48年初夏、市ケ谷勤務になった機会に暇を見つけて戦史室の書庫にある資料(戦闘詳報、電報、回想記、帰国者報告等)を調査し、多くの新しい真実を知ったものの、依然として格差の解消には至らなかった。しかし、資料の少ない人たちの属した部隊は、それぞれ部隊全体が大へん苦戦し、死没者の骨を拾うことも、記録を遺すことも出来なかったのであることが分かり、ある意味ではそのこと自体が雄弁に実情を物語るものではないだろうかと考えるに至り、敢えて有りの侭で進むことにした。

 「散る桜、残る桜も散る桜(良寛)」の苦難時代を生き抜いてきた期友の記憶の中にあるものを知らせて欲しいと期会を通じて諸兄にお願いしたり、個人あてに手紙や電話で問い合わせしたりもした。30年の歳月のなせるわざか答えを得られなかった若干の人があったことも事実であったが、ほとんどの期友からは喜んで知らせて頂けたし、また兵学校当時の英語の平賀春二教官はじめ多くの万々から励ましの言葉も頂き、それに力を得てきた次第である。このような状況であり、不足するところ、誤りのところは読むひ人の記憶にある故人の声なき声、語りかけ、そして訴えを思い出して補足し正してもらいたいとお願いした。

 このような作業は1個人の力ではなかなかよくするところでなかったが多くの期友の御協力があったればこそと感謝せずにはおられない。
寺部甲子男君の『わだつみ記』と故石坂(鈴木)光雄両君が収集整理された『若桜』はこの記録の基本となり、石原靖夫君が収集編纂し江田島の兵学校教育参考館に収められている全戦没者の遺影集を全幅収録させてもらった。そして我々が江田島での最初の校長であった新見政一元海軍中将にお願いして本の題名を書いていただいた。
 
 野村実、吉松正博両君(共に故人)には戦史の専門家としてのアドバイズをお願いし、戦史室に勤務の皆様には書庫での自由な出入りで格別な便宜供与を頂いた。そして、私が22年間勤務した海上白衛隊がこの執筆の雰囲気を与えてくれ、資料を提供してくれた。その自衛隊を去る直前に、期友諸兄の協力でこの鎮魂記録を御遺族にお届けできる運びとなったことは私の一生忘れ得ない喜である
 
2 『続同期の桜海兵第71期』
(昭和60年5月27日 ・ 寺部甲子男編集)

 日本の歴史のなかでも比類のない戦争に遭遇したわれわれ71期のそれぞれの人生は、戦没者であると生存者であるとにかかわらずひとつのドラマでありました。このドラマの集合体である71期全体の運命は、歴史として後世に残す価値のある壮大な叙事詩であろうと思います。

 われわれ71期は戦後2周年事業として、昭和40年、戦災で失われてしまった卒業アルバムに代わる写真集として『海軍兵学校71期」を刊行いたしました。ついで戦後30周年事業として昭和60年、戦没者の最期の状況をかなり詳細に究明した『同期の桜海兵71期』を完成させることができました。

 戦後40周年事業として何を取り上げるかは、かねてからクラス会のひとつの課題でやりましたが、昭和516年11月27日の上野精養軒におけるクラス会において、「生存者・死没者を含め期友全員について、当人の足跡や人となりを明らかにするよすがとなるものを集成し、昭和60年5月27日に刊行し後世に伝える」との決議がありました。

 この目的のための事務を進めるため、クラス会は刊行姿員会を発足させ、
寺部甲子男が編集の、湯野川守正が原稿収集の、柴正文が出版刊行の、金丸光が財政の、それぞれ主務となり、野村実が全般の調整をすることになりました。委員会は上野精養軒でたびたび会合を重ねて作業を進め、またわれわれが江田島で最上級生であったときに最下級生の位置にあっ73期の諸兄の援助をも求めるなどして、ようやくこの本を刊行することができるようになりました。戦後50周年事業として、われわれ71期は昭和70年に、何ができるでありましようか。ご両親であられるご遺族のご生存は、きわめてまれとなるでありましよう。期友のある者は他界し、多くの者も人生の峠を越えているでありましよう。

 日本の状況は、どのようになっているでありましようか。いもの経済的な繁栄が続いているのでしようか。それにもまして、地球は?世界は?いろいろの思いが走ります。とにかくわれわれ71期は、過去の歴史を思い、未来に向かってこのうえの運命を切り開いていくほかないのでありましよう。

 戦後40周年事業として昭和56年のクラス会の決定のとおり、この本を刊行できることは、われわれの大きな喜びであります。原稿や資料の堤出などにご協力いただいたご遺族の皆様、第73期会、期友諸兄、そのほか刊行に開係された多くの人びとにし、心からお礼を申し述べます。さらに、資金調達のためのご寄付をいただいた入びと、多大の強制的な出費にご協力いただいた期友諸兄に対し、感謝の言葉を申し送ります。

10年前『同期の桜海兵第71期』を刊行する際、
高松宮宣仁親王殿下から御懇篤なお言葉を賜りましたが木誌の完成により、「同期全体の足跡を記録として後に残すことも意義あることと思う」と仰せられた烏帽子親の御期待にもいささかお答えすることができたかと考えます。『続同期の桜海兵71期』の上梓を梨本徳彦氏からご報告甲し上げましたところ、殿下から重ねて有難いお言葉を賜わりました。また、本年98歳になられた新見政一元校長からは、表紙題字の語揮毫及び『発刊に寄せて』という一文を頂ました。

 厚くお礼を申し上げます。 かっての海軍記念日に当たり 海軍兵学校第71期『
同期の桜』刊行委員会

3 『続々同期の桜海兵第七十一期』 
 (平成7年8月15日発刊 、編集代表湯野川守正)

 日本の歴史のなかでも比類のない戦争に遭遇したわれわれ七十一期生のそれぞれの人生は、死没者にとっても生存者にとっても、それぞれに壮絶なドラマでありました。このドラマの集合体である七十一期全体の運命は、歴史として後世に残す価値のある雄大な叙事詩であると思います。
 
 われわれ七十一期会は、昭和四十年、戦後二十周年事業として、戦災で失われてしまった卒業アルバムに代る写真集として、「海軍兵学校71」を刊行しました。また、昭和50年、戦後30周年事業として、戦没者全員のそれぞれの最期の状況をかなり詳細に究明した「同期の桜 海兵71期」を刊行しました。更に昭和60年、戦後40周年事業として、死没者・生存者を含む期友全員の足跡や人となりを明らかにするよすがとしての「続同期の桜 海兵71期」を刊行しました。

  これに続く平成7年の戦後50周年事業としては何を取り上げるべきか、種々検討、協議を重ねた結果、平成七年秋江田島において、生存者及び家族並びに死没者ご遺族による合同慰霊祭を行うこと、及びその際その記念として「記念誌」を刊行することを立案し、平成5年11月19日のクラス会に提案し、大方の賛同を得ました。その記念誌の内容としては、七十一期として後世に残すべき諸資料、諸記録を集め、既刊3誌 (卒業アルバム・同期の桜・続同期の桜) を補完するもの、とされました。
 
 記念誌発刊の準備を進めるため、クラス会は記念誌刊行委員会を発足させ、
湯野川守正を編集の、柴正文を出版の、金丸光を財務のそれぞれの主務とし、野村実が全般の調整に任ずることになりました。そして期友及びご遺族全般に対し、記念誌の内容とすべき資料のご送付をお願いしました。
 これに対して期友及びご遺族から多数の貴重な資料が次々に湯野川のもとに送付されて参りました。そこでこれら資料を整理、編集するための編集委員会を発足させ、湯野川、野村、金丸、柴のほかに次の期友を編集委員に委嘱しました。
 
江上純一、遠山司三郎、速水経康、桧垣保雄、細谷孝至、三神武雄、吉田弘俊、渡辺清規

 編集委員会は、湯野川を委員長に、金丸を副委員長に互選し、数回の委員会を開催し、慎重に原稿の整理、編集を進め、ほぼ計画表のとおり平成7年4月完成原稿を得、印刷を開始するに至りました。

 編集を進行する過程において、その内容が、単なる「記念誌」というよりも、「同期の桜」、「続同期の桜」に続く「続々同期の桜」と称するにふさわしいものではないかという声が、委員の中から起って参りました。平成6年のクラス会において、このことを報告、「記念誌」という呼称を「続々同期の桜 海兵71期」に改めたい旨提案しましたところ、大方の賛同を得てそのように決議されました。

 一方刊行に要する経費は、終戦五十周年事業遂行のために、平成五年度から臨時にクラス会費を増額して納入して頂いた積立金と、有志からの寄付金とをもって、おおむね賄い得る目算が立ちました。
 
 このようにして、当初案よりも充実した形での「続々同期の桜 海兵71期」が完成し、「同期の桜」 3部作の完結編として、平成7年10月の江田島における合同慰霊祭に当り、亡き期友の霊前に捧げ、かつは生存期友及びご遺族各位に配布できることになりましたことは、刊行委員一同の何よりの喜びとするところであります。
 戦後50年の歳月が流れました。われわれ世代は、太平洋戦争の渦中に青春を迎え、文字どおり身命を賭して国難打開に挺身し、戦後は廃墟の中から立ち1がり英霊の殉国の至情を心の享をし、それぞれの役割を果したつもりでおります。このことはわれわれ世代がひそかにそれを誇りと考えても許されるでありましょう。しかし一つだけ大きい危倶とそれに伴う性恨たる反省とがあります。
 それは最近の世相を見るときの、「われわれ世代が前世代から受け継いだ民族の精神を、十分に次の世代に伝承し得たであろうか。」という問いかけであります。
 われわれが「同期の桜」3部作を刊行することが、今の世代の若人たち、また更に後の世代の若人たちに、わが民族の血の中に脈々と流し続けてきた、またこの後も流し続けていかなければならない民族精神を、正しく把握してもらう一助となることを切望する次第であります。
 
 この記録刊行のために原稿や資料の収集にご協力↑さったご遺族の皆様、期友諸兄、その他多くの方々に対し、心から御礼を申し述べます。更に、刊行経費としてご寄付を下さった方々、やや強引にわたる経費積立にご協力下さった期友諸兄に深く感謝致します。
 20年前の「同期の桜」、10年前の「続同期の桜」刊行時に、高松宮宣仁親王殿下からご懇篤なお言葉を賜わりました。この度の3部作完成により、「生存者死没者を通じて同期生全体の足跡を記録として後世に残すということは、意義のあることだと思う。」と仰せられた宣仁親王殿下のご教示に、いささかお応えできるものと考えます。

 表紙題字は、「同期の桜」本編、続編とも、新見政一元校長にご拝毒頂いたわけですが、この度はそれは叶わず、大へんな専断、失礼とは存じっつも、続編の題字に「々」の字を擬作挿入して使用させて頂きました。泉下の元校長があの温顔をもってご寛容下さることを願っております。
  平成7年8月15日                           「続々同期の桜 海兵71期」刊行委員会

4 『五百八十一名の全航跡・生と死の記録』
(平成7年8月15日発行、 執筆者佐藤清夫

 私(佐藤清夫)は防衛研究所の戦争資料室に保管されている海軍省が定期的に公報した『海軍辞令公報』の中から3ヵ年に亘るクラス全員の補任状況を詳細に抜粋しておいた。これがわがクラスの戦史である『同期の桜』シリーズ4部作の原点である。シリーズ第1編の『同期の桜海兵第七十一期』は戦没者の顕彰を目的として執筆し、生存者は脇役にまわってもらった。然し、あの大戦で生存した期友たち個人の資料は本文の記述から埋没し、僅かに行間に滲ませる程度に終わってしまった。

 今回は、かねて念願していた生存期友を主役とするため、第2部作『続同期の桜・海兵第七十一期』に掲載されている新しい個人資料を追記し、さらに読者から頂いた『本編』中の誤りを参考として、表題の通り381名全員の「生と死の記録」を戦没期友と生存者とのかかわり合いを可能な限り正確に、しかも一瞥し易いように記述し、巻末に各人の索引を付した。

 戦後半世紀、記憶の彼方に去っていた江田島入校以来の出会いと別離、苦しい戦闘を助け合い励まし合ったこと、広い戦場で「生きていたか、元気でおれよ」といって出撃して還えらなかった期友との束の間の会合などを、慟哭と感動をもって思い出して頂けたのではなかろうか。私の海上自衛隊幹部学校時代からの戦史研究である約35年間のライフワークはこの成果をもって完結する。なお、戦史研究家であり同期生であった故野村実君から「後世に残る戦史的価値ある資料である」 との評価を頂いた。

 あの大戦を何処で止めるかは至難の事であったろう。明治海軍の創設以来の70余年にわたる『栄光の海軍』にしがみ付き、次々に場当たり的に聯合艦隊の「葬送作戦」を強行した軍令部の若手指導者達の責任は大きい。もし、8月15日以前のどこかの時点で終戦したならばと、今日的には、一番犠牲の多かった68期から73期までの生存者にとっては愚痴りたくなる。継戦が大和海上特攻・原爆の投下の時点にまで引き伸ばされたので我がクラスだけでもその60パーセントに近い331名の戦没者を出していたからである。

 トラック基地大空襲の時、「武蔵」以下が基地内に留まり在泊していたならば勿論全滅していただろうし、結果的にこれらの艦艇が同じ沈没する運命にあったのだから、あの空襲での戦闘に巻き込まれた者として不謹慎であるが、そうであったならば終戦はもっと早くなり、我が期友だけについて言うならば、サイパン沖海戦時点ならば280余名、比島決戦後の時点ならば少なくとも150余名の尊い命が助かったであろう。
                          
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