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トラック諸島、それは佐藤清夫と俳人金子兜太氏との「兵どもの夢のあと」

 

 
 平成二十一年四月の「週刊文春」に天皇、皇后両陛下が「シベリア、パラオ、トラック諸島を訪問したい」と言う記事があった。
 昭和六十三年十一月三十日(昭和最後の日)、管理者(佐藤清夫)は野分会の戦友数名とこの島の戦跡を訪問し3日間滞在した。
 島の産業は何にもなく、日本の援助による漁業プラントを見学したが、夏島の旧海軍桟橋上に建設された施設だけで中身の機械設備もなく遠洋漁船などは一隻も見なかった。礁内には今時大戦で沈没した多くの日本の沈没船が英霊の遺骨を船内にいだいたまま永遠の眠りについている。その沈船が世界のダイバーのメッカとなっているほか観光としての施設はバンガロー風のホテルのほかは特にない。
 島の地理的な位置
 横須賀から南南東方向に3400粁の距離にあり、戦争当時は船団速力によって異なるが5日乃至7日の航海行動であった。今日ではグアムまでコンチネンタル・ミクロネシア航空のボーイング727機、グアムからはおんぼろの同社の客貨混載機をうまく乗り継いで行けばその日のうちに到着できる。モエン島(春島)が行政の中心で、ここにある国際空港のターミナルは筆者が行った時にはまことにお粗末なほったて小屋であった。
 モエン島には日本製のポンコツに近い車が走り、海上は舷外機付きのボートが島々の交通手段で轟音をあげて爆走していた。変わらないのは島々、椰子の木、特に懐かしい夏島(デユブロン島)のトロワン山(約350米)、一日に幾回となく訪れるスコール等々である。
 美しい島々には約三万人の島民が生活しているという。秋島の山頂から眺めた展望が一番良いというが残念ながら行かなかった。夏島、全島が飛行場であった竹島(エテン島)は兵(つわもの)どもの夢の跡、椰子の林で覆われ、島の人々は昔も今もさほど変わらない生活であり、素朴な家屋に住んでいることを改めて見聞してきた。
 しかし、平和そのものでありこの世の中にこのような国が未だあることに驚いた。島の人々は文明のらち外であることを知らず自分たちが平和を享受しているように見受けられた。
 独立国となった今日は当時より幸福ではあるまいか。軍事施設は何もなく、その昔の連合艦隊の艨艟(もうどう)を収容した広大な夏島錨地跡に米国籍の海洋調査船一隻が、夏島桟橋には横付け中のヤップ籍の小型漁船一隻が横付けしていただけであった。
  帰国後、水交会の機関紙『水交』につぎの様な散文を投稿した。

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 モエン島、あの当時我々は春島と呼んだ。その水上機基地跡に建てられたホテルのベランダから、わずか3日間であったが、毎日あかさずに、聯合艦隊艨艟(いくさぶね)の夢の跡、その島々をながめてビデオを撮ってきた。
 ホテルのある春島と相対して、懐かしい夏島、秋島、楓島が錨地跡を挾んですぐ近い。
 
 馴染のなかった冬島、七曜島の島々がその向こうに遠く霞む。
 
 夜明け前の、真昼の間の、夕映えの、夜のしじまの海面はその都度様相を変える。
 スコールが錨地跡をよぎり、過ぎ去ったあと雲間からの陽光が海面を一段と美しくする。
 時折、島民のモーターボートが轟音をあげ白波を蹴だてながらホテル沖を通る。
 この時だけ海面の静寂が破られる。ともかく、静かで自然そのままである。
 再び、文明に毒くされないで欲しい。
 
 「大和」艦上から眺めた四十五年前の月も、今、椰子の葉陰を通し中天にかかっている月もともに見なれた隣家の屋根越し月と同じと感傷する。振りに美しい南十字星とも対面する。六分儀で星を下し、艦の位置を出すのに追われた「野分」乗艦当時にはこの星を感傷する余裕などなかった。内地では観ることができない、だから一層懐かしい。
 静かな海面から、島々からは何も聞こえないが、そこかしこのリーフに内火艇を座礁させたことなど、追憶の中でのみ語り掛ける。
 
 早朝の海浜、ほったて小屋のテーブルの上で、島の男が夜通しごろ寝している。その傍らでスコールが過ぎ去るのを雨宿りしながら、まだ明けきらぬ海面に向かい長い間佇ずんでいた同年配の米人に問いかける。カリフォルニアから来たという、「me two]と微笑が返える。この島にどのような想い出を持っているのか。
 
 43年前、この島が米大機動部隊に奇襲され、何らの反撃をすることなく猛爆され壊滅し、多くの人が犠牲になった。私も「野分」で巻き込まれた。
 
 その海の面には、いま、戦争の形跡は見られない。
 しかし、静かな海面の下には今なお多くの艦船が横たわり、船内や航空機内で無数の英霊の骸が閉じ込められ、この地の法律で帰国できない。暗い、冷たい海底に永眠している有様が世界のダイバーの見せ物になっている。私にはとても耐えられない。
  海の男は水漬く屍、その侭でよいとも思うが彼らは納得しているのだろうか。
 
 昼といわず夜にでもスコールが訪れる。
 早朝の来襲時に島の風上、人が訪れない南東岸に臨めば、その先ぶれの海風が季節風と重なり、海辺の樹々を揺さぶり、岸辺に砕ける荒波の咆哮と共鳴する。
 永眠から覚めた英霊たちが、故郷を想う悲しい悲鳴を伝えてもらいたいかのように身の毛のよだつ恐怖を覚える。
 スコールが去ると、また季節風だけが吹きつける海面に戻る。ここでは英霊が静かな眠りに入っているのかなと思いたくなり、安らかな寝息が続いてくれと祈りを捧げる。砂、珊瑚の小片、貝と小石を集め、英霊の身近>から寄せて来ただろう海水を採取し、島を巡り手折ってきた名もない雑草を本に挟んで持ち帰った。亡き戦友を偲んで。
 
 内地に帰るため早朝出港した香取、舞風、野分、赤城丸よりなる船団は空爆にあい、米戦艦部隊最新鋭戦艦ニュージャージーとアイオワ、巡洋艦二隻、護衛駆逐艦数に追われた。
 その北水道の近くまで航走し、僚艦の霊に線香を捧げる。
 
 特に希望して、第四艦隊司令部のあった夏島の桟橋まで船脚を延ばす。
 竹島の滑走路跡は椰子のジャ夏島の司令部跡、病院跡、警備隊跡、潜水基地跡もすべて。
 春島以外の島には電気も水道も無という別の日に、春島の旧通信隊跡、砲台跡、日本船の残骸を追悼する。地区政府や裁判所の官庁街、船つき場、何も買うものとてないマーケットを見る。仕事をしている人を見掛けない。
 日本の中古車に大勢乗って我々に手を振り歓声を挙げ往き来している。
 島民の生活は全く文明の外にあるが、結構楽しんでいる。
 この島は幼い頃に見た冒険ダン吉の舞台であったという。
 
 島を去る日が来る。
 コンチネンタル航空の機が国際空港を離陸し、グアム島に針路を定めて旋回する。
 機上からコバルトブルーの環礁の島々を眼下に眺めると、海面上に見えるのは波涛だけ、船影もないがビデオのシャッタを押す。
 また、昔が甦る。
 機が、アベンジャー攻撃機が攻撃を仕掛けたのはこの付近の雲間からだったのかと、「野分」の艦上で避弾運動に一丸となっていた守屋節司艦以下の全員が、中部機銃台で射撃指揮中の若き日の私が、敵機の猛爆で炎上中の僚艦香取、舞風と沈没した赤城丸が、水平線外で発砲していた巨大敵戦艦部隊、頭上の弾着観測の航空機がともに瞼に浮ぶ。
 空爆で航行不能になっていた香取、舞風は、この戦艦群に私の目の前で撃沈され生存者は無かった。
 続いて、野分も両舷至近に挟叉落下した艦橋より高い40糎砲弾の水柱のしぶきを被った。

 最高指揮官スプルーアンス大将は旗艦ニュウージャージー艦上から「射撃を続けながら沈んでいく敵艦の姿を悲痛きわまれない思いを持って見守っていた」と。「香取、舞風、駆潜艇第24号た圧倒的優勢な敵の攻撃を受けながら最後まで挙艦一致して任務に忠実であったことは米軍の尊敬と賞賛とを博した」と米海軍戦史にある。

 昔はこのトラック島から艦で4,5日かかったが、常夏のグアムで一宿しサイパンを経て一っ飛び、晩秋の成田の夜は肌寒かった。
 トラック島の3日間、ただ、何も考えずに慰霊と追憶の想いにひたってきただけ、誰のために背負ったものでもない肩の荷をおろした。
 もう行くことはないであろうがいつまでも静かであって欲しい、亡き戦士の安眠の地であって欲しい、と祈ってきた。

この島が被爆撃された後、俳人金子兜太氏が着任


 俳人加藤楸邨氏を囲む俳句好きな若者たちの集まりには熱気がありましたけれども、一九四二年(昭和一七年)、四三年と戦局はどんどん傾いていきます。日米の戦力を比べればどうも勝ち目はないということが多くの学生には分かっていたようで、そう話し合っていました。私はといえば、戦争そのものには反対だった。これは帝国主義と帝国主義の戦いであると。しかし一方、この戦争に負ければ民族が滅びてしまう、しり込みしていちゃいかんと思っていたことも事実です。いろんな気持ちを抱えながら、大学にも行かずブラブラしていたのが当時の私です。
 
 四十三年の九月に半年繰り上げで東大を卒業し、日本銀行に就職しましたが、わずか3日で退職して海軍経理学校に入り、そこを翌四十四年二月に卒業すると、海軍主計科中尉に任官。赴任することになった南洋のトラック島にある第四海軍施設部であった。
 
 この島は、横浜の磯子から飛行艇で飛び立ち、サイパンを経てトラックの夏鳥に着いた。
 そこは直前に米軍の爆撃を受けていて、島中が焼け跡だらけでした。 夏島が黒焦げなのを見て、さすがに「日本は負ける」と思った。それでも、いたずらに気負っていまして、腰に軍刀を下げて勇ましく歩き回っていた。
 いくら学生時代、戦争の拡大に抵抗感があったといっても結局、貧しい地方で少年期から青年時代初期を送った日本の若者には、やはり戦争を肯定して「勝たなければならない」という気分があったんです。 主計科中尉として島に来れば、しよつちゅう米軍の爆撃があるし、いつ上陸されるかも分からない。何度も命拾いしました。私は戦場でも、考えられないほど運が強かったんだな。すぐ横の人がグラマン(米戦闘機)の機銃掃射を浴びて倒れていくのに自分だけは無事だったり、手りゅう弾の実験中の事故で落下傘部隊の少尉が吹っ飛ばされた時、真後ろに近いところにいた私は破片も受けなかったり……。
 
 そういう経験には憤然しまして、人間が死ぬこの怖さと、その死を力ずくで実現させてしまう戦争いうものの「悪」を、身もって感じました。私は感性の男ですから、理屈でなく感覚で分かり情で知れば、もう体から抜けなくなってしまうんですね。一九四五年(昭和二十年)になると内地との交通も途絶え、食糧難が深刻になってきました。自給自足でやるしかないからサツマイモを栽培し、トカゲでも虫でも食えるものは何でも食いましたが、飢え死にする者が後を絶たない。私が主計科だったこともあるでしょうが、そんな人たちの姿を見ていると妙な、個人で感じなくてもいいような罪の意識を持ったりします。何人死んでくれればこの芋で何人生きられるという、変な計算までしてしまうんですから。そういう自分に対する嫌悪感が次第に募っていって、「戦争というものは絶対にいかん」と思うようになりました。夏鳥から移った秋島でえ、その年の11月に春島で捕虜生活が始まります。相手は戦勝国だし、海兵隊の連中は若くて元気がいい。みんな美男子に見えました。一緒に来た施設部隊も大体、若かった。そういう彼らを見ていますと、仏のような顔で餓死していった兵隊や作業員がますます痛ましくなって、反省させられました。「おれは運で救われただけじゃないか」という思い。一体どう責任を取るのか‥…・。
 
 四十六年十一月、最後の引き揚げ船に乗りました。船の中で、私は死んだ人たちのことを考え続けました。戦争に反対するために何とか尽くせるような生き方をしたい。それにはどうすればいいか。非業の死者たちに、どうすれば報いられるのか、と。金子さんが戦後の第一歩を踏み出した代表句のは、この時に生まれた。南洋のトラック島で終戦を迎え、捕虜となった私は、昭和二十一年十一月、浦賀に帰還しました。
 
 秩父の家に帰ると、父の伊昔紅は失意の底にいて全く元気がない。開業医として年をとってきているし、戦犯の片割れみたいに、見られていたりして、かわいそうかなと思いました。
 
 私は、戦争のない平和世の中の実現に何か役立てるような場所はないかと考えていましたけれども、結局は、大学を出て3日だけ勤めた日本銀行に戻るしかないと思った。中央銀行なら混乱期でもダメになることはないだろう、とにかく日銀でしばらく様子をみようという、そんな浅い考えで復職したんです。四十七年の二月1日でした。

                        (読売新聞「時代の証言者」より無断抜粋・要約)