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山本五十六海軍大佐(当時)の未公開書簡とその周辺

 編者(佐藤清夫)の手元に期友鬼塚美雄君から紹介された故山本五十六元帥の駐米武官時代(当時大佐)義弟斉藤正久大尉(当時)宛の手紙のコピーがある。故元帥の研究者である阿川弘之氏の著書にも出ていないから、おそらく未公開の書簡であると信じている。

 斉藤正久氏は故山本元帥夫人禮さんの妹十美子さんのご主人であるから元帥の義弟に当たり、手紙の持ち主は斉藤氏の娘
洋子さん,期友鬼塚美雄君末弟逸郎氏の夫人である。


     昭和2年3月11日                 華府 山本五十六
 
 斉藤兄(?)
 三和兄  
 
 鳳翔の訓練も漸く應用期に入り諸君の奮励にまついよいよ大なるを覚えしむ。何しろ艦隊航空母艦訓練の初年度なれば収穫損害もまた大なりと預期せらる。前者に対しては一握りの大ならむことを切望し後者に対しては一針の小をも祈念す。

 米国航空の現状は知悉の日遠きを思うも最近航空委員会より軍務に渡せる意見中、母艦々長等の教育課程を見るに操縦時間・水練40時間、実用機30時間位を包有す。而して、現にペンサコラ(航空隊)にて修業中の大佐5名は、何れも50歳以上なりといふに至りては、彼等の意気実に倒天の感なくんばあらず。
  
 35(歳)が飛行の頂点なりと早老の考を捨て、諸君は死ぬ迄飛ぶの大決心と而して用意を必要とすべし。特に米海軍に於てさえ, 年長に及び飛行の技倆に多少の低下を見るも。経験と信念とは能く統率の優を期すべしと称し居れるは。。彼等が必ずしも目前の技倆のみに着眼し居るにあらざるを覗ふべし。
 
 実戦の際は発艦の技を以て足る。以後はたヾ敵を破るの膽勇のみ。願くは徒に着艦の巧拙のみに吸々として心眼を養い,神術を練るの工夫に粗なる勿れ 愛弟と思へばこその老婆心。せつかくしっかりたのむ。
 
 上野君の帽子(手縫の)に敬意を表す。
 


 この
斉藤兄と三和兄とは、日本ではじめての空母「鳳翔」で訓練中の戦闘機乗りの斉藤正久大尉(兵47期)と三和義勇大尉(兵48期)である。斉藤兄の次に(?)とあるのは、義弟であるのに「兄」とつけた義兄たる長官のユーモアが偲ばれる。
  


 平成8年4月の頃、期友
鬼塚美雄君から、斉藤氏宅には故元帥からの私信が沢山あったが、終戦の時皆焼いてしまい、娘洋子さんの手元に只1通が残っていることを聞いた。
 アメリカからのもので「余りにも達筆でよく読めないし、五十六伯父さんは手紙を沢山書いていたから、大した内容ではないでしょう」と言っているということであった。ともかく見せて欲しいとお願いしたところ、早速直筆の上記の手紙(実物)を手にすることができた。

  斉藤さんは、義兄が日本海軍航空の現状から前途を憂い、後輩に期待した気持ちを吐露したものであったが故に、終戦時に焼却出来なかったのであろうと考え、同氏にお会い出来ないかとお伺いした。洋子さんは「海軍のことは父より聞いていないし、最近は高齢のため人に会わない」ということであった。その2ヵ月後に99才のご高齢で死去された。



 大正14年12月、霞空副長から米大使館付武官(2回目)に任命された山本大佐は、当時は商船での赴任旅行時代であるから着任したのは翌15年正月であったろうか。この手紙の日付け(昭和2年3月)から見ると着任後約1年少し経つたころのものである。
    
 まず、書簡中にある《ペンサコラ(航空隊)にて修業中の大佐5名》とあることを解説しておかなければならない。

 当時、米海軍での航空関係を目指す高級士官にたいするこの「航空偵察学生の教程」は修業期間約1年間で、当時のわが海軍にはこれに比する制度は無かった。

 
 編者は
『駆逐艦野分物語』を執筆するため米国海軍の有名な『モリソン戦史』を調査中、私の乗艦だった駆逐艦野分はハルゼー中将(第5艦隊長官)とスプルーアンス中将(第3艦隊長官、所属艦艇は同じで指揮官が変わると艦隊名が変わり第3艦隊となる)の両提督と、別々な海域での戦闘でであるが相対陣していたことが判明した。このような訳で、この両提督とその直属指揮官ニミッツ大将(米太平洋艦隊長官)とこれに対した我が山本五十六、古賀峯一、豊田副武、小沢治三郎各聯合艦隊長官とその隷下の指揮官達との作戦指導について比較研究していた。

 そのハルゼーは22年間にわたる海上勤務の後、年配になってから海軍大学校、陸軍大学校の教育をうけ、孫もいる51歳(当時大佐)という年齢で20代の若い士官に混じってこの航空偵察学生教程を卒業し、航空母艦サラトガの艦長となった。この大転換がなかったら彼はもちろん元帥になれなかただろうと言われている。


 
ハルゼーは、その後、航空関係の要職を順調に昇進してゆき、南雲艦隊の真珠湾奇襲時には16航空戦隊司令官(空母エンタープライズ、戦艦3隻、巡洋艦4隻、駆逐艦九隻の指揮官)として少将旗をエンタープライスにひるがえし、ウエーキ島に戦闘機の増援に出ていて難を免れた。

 
ハルゼーは開戦の10日前に海軍作戦部長キンメル提督から「開戦に関する準備命令」を受け、ウエーキ島の防衛hを強化するため海兵隊の戦闘機12機を輸送する極秘命令を実行中であったのである。この日、昭和16年11月28日、おそらくキンメルが海軍省から受け取ったメッセージは驚くものであったとハルゼはその自叙伝で述べている。重巡部隊の指揮官スプルーアンスも出港して始めて知ったくらいである。

 「この電報は戦争警報と考えるべきものである。太平洋での情勢安定化を模索していた日本との交渉は終了した。そして日本による攻撃的な動きが次の数日以内に予想される。(筆者中略)キンメルは
「海軍の基本的戦争計画で定められた諸任務を遂行する前の適切な防御的展開を発動するよう命じられた」のであった。
 このことは日本の公私にわたる戦史、先輩の回想記等にも紹介されていない事実である。読者諸兄よどの様に判断されますか。

 ハルゼーは、その後、陸軍の爆撃機B25をホーネットに搭載し、はじめて日本本土の片道爆撃を敢行し、戦果は大したことはなかったが、アメリカ国民の士気を鼓舞し、日本は衝撃を受けミドウエーの攻撃のきっかけとなる。所謂、「ドーリトル爆撃隊」で、真珠湾奇襲後僅か半年のことであった。そして、そのころ病気となりその職をスプルーアンス中将に譲り、ミッドウエー海戦を指揮できなかった。
 
 病気が癒えたハルゼーはソロモン方面を担当する統合軍の指揮官に任命され、担当海域である「ガ」島での日本軍の追い落とし、山本長官の撃墜、ソロモンでの諸海戦で日本軍の敗戦を決定づけた。

 その後スプルーアンス中将と交代で米艦隊を指揮してフィリピン沖海戦、終戦直前の日本本土の機動部隊による砲、爆撃を敢行し、終戦時は旗艦ニュージャージー艦上で、相模湾沖にあった。
 


 山本武官が義弟宛に便りを出した昭和2年は、日米とも航空創設期の事で、リンドバークが大西洋無着陸横断飛行に成功したばかり、わが国の航空界とは一歩も二歩も進んでいた。この時山本大佐は43歳。アメリカ海軍が50歳以上の大佐をパイロットとして養成することに驚き、「彼らの意気倒天の感なくんばあらず」と記してある。1882年の生れのハルゼーはこの時46歳であったから彼がこのコースに入ったのは数年後であったろう。

  大正11年末世界で始めての空母として就役した「鳳翔」での着艦訓練に就いては阿川著『山本五十六』伝記に詳しい。山本武官からの宛名になる三和大尉たちの着艦時の訓練として勘に頼る先輩搭乗員、計器使用を考える後輩搭乗員との間にあった鉄拳制裁も述べられている。ここの鉄拳制裁は、終戦まで続き、飛行学生となった我々のクラスにも及んだのであった。
 
 このように当時の海軍の飛行機乗りの気風は、勘偏重、一種の職人風の名人気質と、明日の命が知れないという一種のやくざ気質とが裏おもてをなしていたともある。

 さらに、「山本大佐は単に霞ケ浦航空隊の軍規風紀を建て直そうと思っただけでなく海軍の将来にマイナスであることを憂えて、その気質を是正したかったのであろうと思われる」とある。山本大佐が手紙の中で「着艦の巧拙のみ吸々として、心眼を養ひ神術を練るの工夫に粗なる勿れ」と戒めているところであろう。

斉藤正久大尉とは
 飛行学生第8期出身の戦闘機乗りで、大正12年に飛行学生としての教育を受け、翌年11月に9名が卒業し、赤城飛行長などを経て、海軍航空部隊最後の航空配置は第252航空隊司令(20年6月まで)、海軍大佐であった。

 この斉藤氏の戦中の戦歴については資料がないので触れなかったが、長官戦死直前の3月29日に義母亀久さん宛に認めた手紙があり、斉藤さんが持参したと元帥長男義正氏著書にある。その手紙はトラック基地の旗艦「武蔵」に義弟が来訪したのでしたためたのであろうか。斉藤さんは当時の海軍省発行『兵科士官名簿』によると、この時航空本部第一課長であったから出張の可能性があり、また長官の前線視察のためのトラック出発が4月3日であったことの状況判断からこのように推定するところである。斉藤さんがご健在なときでお会いできたら世に語られていない事実も明らかになったであろうと思うとき、真に残念である。
 

三和義勇大尉とは
 斉藤氏の1期下の兵48期、飛9期の同じ戦闘機乗りで、この手紙を受け取った直後に、山本親雄補佐官(大正11年の飛行学生出身、元中将)の代わりとなり駐米。その後、山本五十六少将が第一航空戦隊司令官で「赤城」に乗っていたとき、同艦の飛行隊長、開戦直前から約1年間は聯合艦隊の航空参謀として度々長官と生活をともにし、長官死後、暇も見て『山本元帥の想い出』と題する手記を書き留めた。後に第1航空艦隊参謀長として、中部太平洋のテニアンに転出してからも、これを続けていたが、テニヤンの運命が迫ったのを知り、妻に届けさせたが、間もなく玉砕戦死している。故元帥から特に知己を得た一人であったとある。
 
 書簡の最後にある上野君とは、其の経歴から上野敬三元中将ではなかったかと考える


  NEW 元帥の自記筆の書簡(コピー)(右から)


 我が海軍には高級士官にたいする米海軍のこのような航空偵察学生教程の制度はなかったのでハワイ奇襲の南雲忠一長官などは航空作戦にはまったくの素人であったといえよう。ハルゼーのような積極的な提督が日本海軍におったらと想うのである。

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