1、 この写真 この写真は、米艦隊がハワイのニミッツ長官の「行動的攻撃を即時に停止せよ」との命令により、本土攻撃中の艦艇が相模湾に入港した時のもので、当時の我々には屈辱的な写真の一つであった。 しかし、伝統の継承・海上自衛隊の創設はやがて実現する。
2、 「職業軍人」という言葉 あの頃は自分の息子を海兵に入学させるのは、父親の強い願望であり、息子さんはと聞かれて江田島ですと答えることは誇りでもあった。敗戦(終戦)になって、我々は「職業軍人」であったと言われ、ショックを受けたことを今でも鮮明に記憶している。 この課長は、軍縮時代から軍拡に移る時期であろうか、優秀な兵学校生徒を採用するために新設間もない愛宕山のラジオ放送局(JOAK)から放送したいという事になった。放送局としては、唐突な、前代未聞のことであったので大工や左官を教育する「職業訓練講座」によらなければできない状態であった。放送実施後の翌朝に早速、同中佐は局長室に呼ばれた。 「帰れ」というただ一言であったが、その後、井上局長は事あるごとに栗原中佐を理解して支援してくれたという。なお、同氏は「俺は一般の海軍士官と少々違っていたからな」とも言っているが、このような考えの教育を受けておれば敗戦後の「職業軍人」<帝国軍隊に職業はあったのか、つまりプロの軍人はいたのか>という一文を見た。 3、旧海軍三校の「菊のご紋章」に関するエピソード 我々が江田島に入校し、朝な夕なに仰ぎ見た生徒館の正面玄関上には当然ながら菊のご紋章が燦然と輝いていた 『水交』平成4年8月号に青砥則夫氏が「われ経校の御紋章と軍艦旗を奉焼す」という一文が紹介された。ご紋章は、日清戦争で大戦果を挙げ、さらに日本海海戦では第三艦隊の旗艦だった初代「扶桑」の艦首に奉掲されていた由緒あるもので、材質は桑の一枚板で、朝に夕にこの菊花燦然たる御紋章を拝し、感激感奮いよいよ尽忠至誠の念に燃えたといわれる在校生と職員は終戦による奉焼に立ち合ったというものである。 同校の橿原分校(第39期予科生徒だけ在校)でも同じような奉焼があったことを当時の教官桜井正氏(主29期)が同誌10月号で紹介した。ここでは開校・奉戴、幾許もない終戦・奉焼で、「僅か4月半の海軍生活しかない生徒達の胸に生涯残るような良い想い出にしよう」と焼け残った灰の分配があったともある。 兵学校の各校などでも同じような終焉があったであろうが、海上勤務者には想像出来ない陸上での海軍解体の哀れな一場面であったろう。 元海軍大佐寺崎隆治氏が水交会で行われた座談会で経理学校と機関学校のご紋章が奉掲される至った経緯を述べていた。これは非公開で、海自隊幹部学校校長の金庫ににあると聞く。 昭和14年(1939)5月に軍務局員となった上記の寺崎さんは、海軍儀礼、服装を担当し、海軍省と宮内庁との連絡に当っていた。その頃、経理学校と機関学校の両校がご紋章を欲しがって海軍大臣宛に上申してこられた。兵学校は昭和6、7年頃に御紋章を生徒館につけて得意としていた。 寺崎さんは、宮内庁と交渉したら「海軍省でいいなら結構です」というので起案して課長に持っていったらOKだったが、井上成美(軍務)局長さんは、「これがあるのは統帥権に関わるもので、兵学校等は統帥権の学校ではない。鎮守府なんかは統帥というか軍隊になっている。そういうところとか軍艦はご紋章があるが、学校などは統帥に関係ないからいけない」と言われて印判を押さなかった。寺崎さんは井上さんが忘れた頃と思って持って行ったら、「前にいけないと言った」と言って判を押さないので「もう脈がないと思った」が、局長が阿部勝雄さんに代わり、宮内庁も差し支えなかったので裁可されて実現した。それは倉庫の中に入っている艦の御紋章で、両校長とも非常に喜ばれ、生徒の訓育上いいといわれた。 井上さんに知れたら私は大変怒られるところだった。井上さんは理論闘争家なので、そんなら兵学校も止めてしまえと言われたであろうが、止める訳にもいけなかったので、局長が代わるまで待っていた。 そういう歴史は何処にも書いてない、と回想されている。時期は昭和14年の頃であった。 |