太平洋戦争の開戦1年目に、71期581名が卒業、戦陣3年弱の間に331名の期友が祖国に殉じたのである。時に弱冠20歳少し過ぎであった。兵学校卒業以来のことが走馬灯のように頭の中を去来する。あの友も、この友も物言わぬ神となって、靖国の御社に鎮まり給うのだ。 1 貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く、咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国のため 2 貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く、血肉分けたる仲ではないが、何故か気がおうて別れられぬ 3 貴様と俺とは同期の桜、別れ別れに散ろうとも、花の都の靖国神社、花の梢に咲いて逢おう と,一緒に歌ったのがつい昨日のように思い出される。 若者達は逢えば必ず、それが南海の果てであろうと、あるいは北辺の雪の中であろうと、手を取り合い、酒を汲みかわしてこの歌を愛誦し、現世においては固より、死んでから後まで、いつまでも変わらない友情を誓いあった。 この 「同期の桜」 を唄うとき、我々は特別に目がしらが熱くなる。それは期友帖佐裕生徒が江田島在学中に作詞したものと分っているからである。。 我がクラスは終戦直後はGHQ(連合軍総司令部)の監視が厳しいので密かに、講和条約締結後は毎年靖国神社での慰霊祭を行ってきた。期友の最後の一人になるまでも続けると誓い合って来ている。 その作詞作曲が前々から問題となっていた。作詞は詩人の西條八十ということにはなっていたが、作曲者が判らなかった。 期友帖佐裕君 (平成7年死去) は戦後、常々次のように言っていた。 「作曲は私でないし、歌詞も私が作り替えただけのことです。当時だって、私が自分から俺が作ったと言ったことはありません。クラスの連中は、しかし、私が作ったことを知っていました。作ったのは兵学校の頃でした。昭和16年か7年頃です。江田島の金本倶楽部にレコードがあって、そのメロデーを覚えたのです。いまの「同期の桜」です。名前も忘れてしまったそのレコードの歌詞は 『君とぼくとは二輪の桜、どうせ花なら散らなきゃならぬ、見事散りましょ国のため』 でした。 いつか、私は<貴様と俺とは同期の桜>とつけて、独りで歌っていたのです。<同じ兵学校の庭に咲く> と歌いました。はじめ、倶楽部で、仲のいい連中だけで歌っていました」 と。
期友林富士夫は、宇都宮市の私立下野中学校在学中のころ、一時「音楽学校に入って作曲家や指揮者になりたい」と思ったことがあるくらいで、その声は素人ばなれしている。彼は1号生徒のとき金本倶楽部を使用していた。帖佐も2号の時同じ金本倶楽部を使用していた。帖佐も音楽方面に進んでいたらと思うくらいで、この両名はクラスでの偉才であった。 この金本倶楽部に 「二輪の桜」 というレコードがあった。その題名も、どこのレコード社のものであったか帖佐も林も記憶していなかった。戦後も長い年がたったころのこと、紆余曲折を経てこのレコード捜しに懸賞金が出ることになった。
自称作者の作品が「神雷部隊の歌」であったため、「歌のことなら林に聞け」ということで林冨士夫にたどりついた。 昭和55年3月19日の東京新聞は帖佐の言っていた「幻のレコード」が完全な形で発見されたことを報道した。それが蓄音機にかけられ、確認された。 それはキングレコード社が昭和14年7月に発売した流行歌 「戦友の歌」 で、歌手は樋口静雄であることが判明した。昭和13年2月号の少女倶楽部に掲載された西條八十の小説 『二輪の桜』 の主題歌に 『麦と兵隊』 の大村能章が曲をつけたものであった。
昭和19年6月、サイパンが陥落したころ、呉の料亭でのことである。帖佐は戦艦武蔵での「少尉候補生実務実習」後、駆逐艦時雨に乗り組み、ガ島撤退作戦に候補生として初陣し、その後もソロモンでの「ベラ湾夜戦」に参加する。そして、昭和19年2月のトラック島への米機動部隊空襲時は環礁内で空襲の洗礼を、その直後内地に帰り、5月に伊号第10潜水艦乗組となった。 この潜水艦乗組から山口県大竹にあった海軍潜水学校の普通科学生に入校した帖佐裕中尉は、6月頃、暇があると汽車を乗り継ぎ、呉の料亭ロック (岩惣) に通った。その2階の一室、相対するは当時大浦崎のP基地の特攻士、海軍中尉の久良知滋。帖佐と久良知は2号生徒のとき第46分隊で寝食を共にした仲である。 帖佐は、はじめ仲のいい連中だけで歌っていましたがやがて同期の連中に少し広まりました。潜水学校に行って <同じ潜校> にしてからは相当に広まったようです、と言っていた。 海軍中に爆発的に歌い始まったのは旧海軍のメッカ呉の料亭のS達 (芸者) から口づたえに潜水艦乗員達に、そして他の若い士官達にと伝わったのであろう。
久良知はその直後横須賀の第1特攻戦隊の第11突撃隊(海竜)特攻隊長に転勤した。 そして、その年の3月ころに横須賀の料亭パイン(小松)で、皆がこの曲を唄うのを聞き伝播の速さに驚いた。
林富士夫中尉は、大分空、神ノ池空での航空学生の教官を経て、19年5月下旬筑波航空隊に着任、13期飛行予備学生の戦闘機の指導官付となったが、その頃 「同期の桜」 を聞いた。 彼は恐らく呉又は横須賀に在泊中の潜水艦の通信士かなにかの配置から飛行学生になった後輩たちと隊の士官室で飲んでいたときのことである。 「いい歌があります」と後輩が言い、「同期の桜」を歌った。 <同期>、<兵学校>、<貴様と俺とは>等の替詞を使って歌った。 そして<兵学校>のところを<筑波>とか<谷田部>とか勝手にその隊の名に替えればどこでも通用する便利な歌なんですといって紹介された。
林中尉は、19年10月1日、この部隊に転勤、特攻機「桜花」の基幹員の1人として百里原基地で訓練機の領収や訓練方式の検討に従事し、ついで11月7日部隊は神ノ池基地に展開した。 そのころ、神雷部隊桜花隊員の間にこの 「同期の桜」 が唄われていた。先の替え歌の <兵学校> が <神雷>に替えられていた。 それにしても 「神雷部隊の隊歌」 として何とこの歌はピッタリした歌であり恰も、神雷部隊のために、特に作詞、作曲された歌のような感じがあったと彼は言う。神雷部隊の兵器が 「桜花」 であり、自爆兵器 「桜花」 に乗って出撃すれば百パーセント間違いなく皆死ぬのである。この歌を聞いた隊員たちは自分の部隊のために作られたものであり、神雷部隊が 「同期の桜」 発祥の地だと錯覚しても当然であるとも好意的に回想する。 この部隊は空における決戦兵器として極めて特殊な扱いを受け、皇族を除けば帝国海軍の最長老の元帥永野修を初めとし、軍令部総長及川古志郎、連合艦隊長官豊田副武、海軍大臣米内光政、そして最後には陛下から勅使の御派遣まであった。この部隊には物資も豊富にあり宴会も数繁くあり、そのつど隊員は 「同期の桜」 をわが歌として熱唱した。
主役には轟夕起子とか桜町公子、脇役に清川玉枝、若手には三邦映子、三谷幸子、それに名人会(講談、漫談、声帯模写の芸人)のメンバー数名、楽団は「楽団南十字星」(楽団員杉田静雄 (アコーデオン)、アコーデオンの小林亜星、バーカッションの内田さんなど13人)、それと司会者であった。 昼間部隊で演芸が行われた後、夜は演芸団を「あやめ旅館」や 「潮来旅館」 に泊め、部隊の物資を動員し林などの幹部が逆慰問するのが常であった。 司令 (岡村基春大佐) から「おい、71期の君たち、あれをやれ」と指示があったが、それが 「同期の桜」 であることは明らかであった。三橋謙太郎と林が並んで立って歌った。 楽団の人達もこの部隊が特攻部隊であること、部隊の中で必ず死ぬのが桜花隊員であり、そのトップに立つのが目の前で歌っている同期生どうしであることも承知のようであった。従って、この歌が彼等に与えた印象もまた格別であったろう。 演芸団の人達は誰もこの歌を知らなかった。皆 「いい歌だ。教えて下さい」 とのことで、林はこの楽団に単純化された 「ミミラド方式」 の歌を教え、彼らは正確に譜に書いて持ち帰った。 この三橋大尉は、神雷部隊桜花隊特攻の野中部隊の初陣で無念にも目的を達せず母機とともに撃墜され、歌詞のとおり散華したのは翌20年3月21日であった。
少女 (童謡歌手) の声で 「同期の桜」 がラジオ放送された。 愛宕山にある放送博物館4階の図書ライブラリーにある昭和20年6月29日午後7時にラジオ放送された内田栄一、栗本正、東京放送合唱団等による「前線歌謡曲集」の曲目<加藤隼隊長、彗星隊の歌、ラバウル小唄など全8曲>のなかに「同期の桜」がある。 そのためか、海軍部内でしか知らなかったこの歌が急速に全国的に流行し、この歌を余り歌っていない部隊にも民間から逆輸入されて数しげく歌われるようになったこともあったろう。
戦後十数年、海上自衛隊が創設されてから7年近くがたつたころで、戦後の軍国調払拭も一段落し、懐古趣味が台頭したころであった。特に鶴田浩二 (予備学生出身) が歌うようになって爆発的に流行し、戦争を知らない子供達にも普及した。 あの負け戦を共に闘い、多くの戦友、同期生、同年兵を失った老兵たちの心の琴線を揺さぶる名曲である。ともあれ、元歌の作詞者西條八十や作曲者・大村能章も忘れてしまったようなものを不朽の名作に仕上げたのが帝国海軍の帖佐であり、空絵事の作品が生死の間にあった戦士達によって入魂の作に生まれ変わったというべきであろうか。 |