七一会団結の合言葉は「六百一心」 |
我々海兵71期は、ヨーロッパで第2次大戦が始まった直後の昭和14年12月1日、海軍兵学校に入校し、即日海軍兵学校生徒を命ぜられた。 旧海軍兵学校の生徒数は、満州事変以後逐年増加し、我々の1号生徒であった68期が300名クラス、69期が350名、70期が450名であったが、我々71期に至って一気に600名クラスとなった。 これは昭和12年度(1937)に設定された第3次軍備拡張計画により建造される大和型戦艦4隻等と倍増される75個航空隊の要員として兵学校生徒の採用員数を600名とする計画によったものであった。この計画に沿って兵学校71期、機関学校52期、経理学校32期が採用されたのであったが、勿論、我々はそのような計画を知る由もなかった。今日的に見るとこの第3次計画と次の第4次計画とが対米開戦への布石であったらしい。 そして、次のクラス72期も600名、73期は900名と漸増、以後一気に増大されて、それでも足りず、予備学生1万人余り、予科練10万人余り、更には国民兵まで招集して戦ったが、刀折れ、矢尽きて戦争に負けて77年の歴史を持つ帝国海軍は解散した。戦争に参加できたのは繰上げ卒業した74期までである。 75期以降は江田島、大原、岩国、針尾での生活だけに終わったが、海軍の良いところだけを純粋に継承し戦後の日本の各界での驚異的な発展の牽引力になった。 さて、18倍という激しい競争試験を突破して合格し、天下の秀才のつもりで江田島にやってきた我々71期生に待っていたのは「600名クラス」という有り難くないレッテルであった。誰かが「賢兄愚弟」かと言った。 海軍では由来クラスの縦のつながりを錨鎖に例えていた。一つでも弱い環があれば錨鎖はそこから切れ、どんな重い錨も用をなさなくなってしまう。我々71期の600名という大クラスは、一致団結すれば海軍一強力なクラスとなるが、一つ間違うと海軍の伝統を破壊しかねない厄介なお荷物となる恐れもあった。期指導官も不揃いの林檎たちを受け待たされてよほど心配だったようである。入校間もない頃新入生全員は広島の山奥にある毛利藩の「百万一心」の碑の前に連れていかれ、「六百一心」をクラスの合言葉として一致団結、海軍の伝統を受け継いでいくよう強く指導された。 2年たってわれわれが1号生徒となった昭和16年12月8日、日本は大東亜戦争に突入した。たちまち冬休暇は取止めとなり、生徒館にも緊迫の空気がみなぎった。海軍の偉大な戦果を聞くたびわれわれの血潮は沸き、卒業が一日も早からんことを祈った(期友寺部甲子男の手記による)。 この「六百一心」の合言葉は以来今日まで「同期の桜・貴様と俺」の関係が今日まで60余年間にわたって続いている。 呉港、音戸の瀬戸の外近く情島での最初の幕営(キャンプ)で続木禎弌期主任指導官(左)と吉野捷三指導官の訓示を拝聴している新入生の我々は事業服、作業帯、体操帽に身を固めて、緊張している。 続木主任指導官は、終戦直前に豊川海軍工廠の総務部長として同工廠が駁撃され際、職員、工員の避退を確かめるために防空壕を出たところで、被爆戦死された。 |
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1、601名入校・581名卒業のまとめ
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