終戦で米陸軍に接収されていた兵学校の施設が返還されことになった昭和30年ころである。
丁度この時期、田浦の術科学校で卒業時期にあった第4期幹部候補生を是非江田島で、約2ヵ月という短期間でも、旧海軍の揺籃の地、伝統発祥の地で、小用峠を徒歩で越え、生徒館生活を体験させ、古鷹山に登り、大講堂で卒業式典を行い、表桟橋から機動艇で赴任させる方針が示された。この計画は後述する「旧海軍の伝統継承」の項で述べる『海上自衛隊創設の秘話』の主人公吉田英三元海将達の発案であったろう。
この4期幹候と5期幹候(部内出身者だけの)の江田島移動に当たったのが編者達両幹候の指導官(主任指導官は64期、指導官は71期から75期の江田島、舞鶴出身者)であった。この民族の大移動直後、江田島では珍しい大雪が降ったことを思い出す。
当時、昭和31年4月某日の中国新聞に 「旧海軍卒業式の再現」 「海上自衛隊江田島術科学校学生巣立つ」 「教官、在校生に送られる候補生」、「小国校長等の見送りを受けて、表桟橋から実習艦に乗組」 とあった。
この卒業式を当時と全く変わらない方式で行うための細部を企画、実施した当事者の一人として、腰に短剣の無いのと婦人幹部自衛官が出来たことが大きな違いであるが、現在まで連綿と続いている映像に接するたびに深い感慨を覚える。
そして、インド洋での国連軍への洋上給油支援等で示されるシーマンシップの見事さは、吉田元海将たちから71期以下の兵、機関出身の75までの指導官を介して海軍の伝統『スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り』の精神を田浦の術科学校で、そして米国海軍から貸与されたフリゲート艦上で新生海上警備隊の初級幹部候補生(第1期から第5期まで)に伝授した。
そして、前述のとおり米陸軍から返還された江田島で第4期幹部候補生を表桟橋から卒業させた当事者として、しかも旧海軍出身者であり海自隊員OBである我々は現在の自衛隊員、自衛艦隊を誇りに思うと共に、旧海軍のDNAの偉大さを改めて感じ、先の大戦での失敗を教訓として平和な日本が永遠に続くことを祈念している。
第1回の航海実習はハワイまでであった。指揮官は後に海上幕僚長となる中山貞義海将であった。 |
28・4・1 |
第1船隊編成
(司令・三上作夫) |
くす、なら、かし、もみ |
第2船隊編成
(司令・富田 清) |
すぎ、まつ |
第1船隊群編成
(群司令・吉田英三) |
旗艦うめ
第1船隊と第2船隊のPF×9隻 |
28・2・16から |
貸与艦艇の増加に伴い部隊の新編、改編が続く |
吉田英三元海軍大佐は兵学校第50期生、その後、自身が建設した海上警備隊に入隊、貸与された警備船の群司令としたその育成に尽力し、一方、旧海軍の大和クラスを建造した技術を温存した日本造船所に酔うる国産艦を次々建艦し、育成したシーマンと国産艦、その成果を示すため第2回の新幹部の訓練のため編成された遠洋航海部隊の指揮官として 国産第一号艦「はるかぜ」を旗艦として、貸与艦3隻、国産艦3隻を率い米本土とカナダを戦後初めて訪問した。
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写真左 国産第1号艦の「はるかぜ」(旗艦)
右 指揮官吉田英三海将を囲んで(中央)、カナダのエスカイモルト軍港の構内での撮影
(左から幕僚清水清三佐、副官清水文郎三佐。右端はるかぜ副長兼実習員指導官佐藤清夫三佐)
左・練習船隊がサンフランシスコ港外に到着
右・ガーデンブリッジを通過し入港するところ
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