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第2、第40期飛行学生出身者 (昭和18年6月1日から) |
このような戦況下での7月1日に次のとおりの所属が発令された。この発令が各期友の<「生死の分かれ目>となった。 大部分の者が内戦航空部隊の練習航空隊付兼教官に配属され、錬成に勤め、戦況の進展により第一線の外線航空部隊はの進出にそなえた。外線航空部隊に配属され他者も多いあった。彼らは着任3ヵ月後 御身一つで前線に送り込まれて初陣し、10月10日からの「台湾沖航空戦」で26名が、続いて進出した台湾、フィリピンでの敵機動部隊の来襲に基地から出撃し、敵機動部隊索敵・攻撃と来襲敵航空機の迎撃戦闘で38名が還らなかった。 これらの作戦、戦闘ですでに戦陣4ヵ月になる飛39期出身者は93名卒業のうち46名が大空に殉じて、残りの者は練度も向上して「Aクラス」となっていたが、卒業したばかりの飛40期出身者は偵察専修は<240時間>、艦爆専修は少し多くて<267時間15分>の飛行時間で、いずれにしても僅かな実績であったから、その実力は仮免許程度であったろうか。 この頃になると、彼我航空機の性能は我にきわめて不利、米艦隊はレーダーによるCIC(戦闘情報中枢システム)航空管制下に行動する航空機相互の連係は完璧に近いものになっていた。 「台湾沖航空戦」に参戦した期友から聞いたところを総合するに、CAP(航空迎撃管制下の上空直衛戦闘機群)の待ち構えた真只中に突入することになり、敵機はわが行動を逐1把握し上空から襲いかかったので、我が方にとってはその姿を発見できなかったという。しかも、このスクリーンをかい潜り艦船攻撃に向かった機も敵直衛艦の対空VT信管(小型レーダー装備)付の弾幕に無念のほぞをかんだであろう。10月末迄に22名が散華した。 @比島に進出した山田良市(元航空幕僚長経験者)は、彼自身初陣では敵が見えなかったが2回目からは見えるようになったという意味のことを回想している。 A高橋進は、「最前線で散華した多くの期友たちは連日の戦闘では衆寡敵せず散華し、毎日栄養剤注射を打ち乍ら、心身ともに疲労困憊し、斃而後己の教えを心に繰り返し、早く死にたいと思い詰める程凄愴激烈極まりないレイテ湾に対する神風特攻隊の直掩任務に明け暮れていた」と回想している。 後方の練習航空隊に残った教官達は、後進の教育に専念し、戦局の進展に応じ漸次戦列に加わることになり、しかも初陣であり、優秀な歴戦の敵パイロットに対し苦戦し、散華し、特攻した。終戦時には39期が16名、40期は73名が戦闘余力を残したものの、度重なる空襲による機材の被害、必殺の湯野川、林富士夫の桜花特攻兵器も地上撃破され皆無となった。そして、富松唯利(大井航空隊)、岩崎保(徳島空)は練習機で白菊特攻編成待機した。 上記のとおり、来敵に何らなすところない各部隊の指揮官、参謀の口頭命令で着替えと洗面用具だけを持って最前線に突入させられたわけであった。 以下、終戦までの戦没期友の<死>の戦歴と、苦楽を共にし生死を分かち合った生存者の<生>の偽らざる記録である。
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