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、第40期飛行学生出身者 (昭和18年6月1日から)


1、練習航空隊での錬成概要

 @ 霞ヶ浦海軍航空隊付への発令


候補生としての後期実務実習が終了し、海軍少尉に任官(8年6月1日)により、一応一人前の初級士官としての任命、配置換えが行われた。霞ヶ浦海軍航空隊付に発令になった172名が全海域からあらゆる手段で、例えば北の占守におった重巡「羽黒」から岡本、石井、梅本、湯嶋、瀬島が大湊に帰る「木曾」に便乗、赴任旅行して着隊した。

A 練習機課程(6月から翌年2月までの約8ヵ月間)

 第40期飛行学生に任命された期友達の93式中間練習機による操縦訓練期間はは7ヵ月余り、飛行時間は130時間前後、機種により実用機の飛行時間は大差があった。終了の時期、次の飛41期学生として72期(9月15日繰り上げ卒業)が予定より早く入隊してきたので、学生の収容能力の関係で操縦専修学生が1か月早く実用機教程の各航空隊に移り、偵察専修学生48名も約1か月間ダブつて教育を受けた。

 翌年の19年1月19日、機種別、操縦・偵察別の希望調査を出した頃である、先輩の飛39期学生が卒業、2月1日に進路が発表され、同月6日卒業飛行があり、26日に霞空に於ける全教程が終了。トラック大空襲があったのはこのころ(2月17、8日)であった。3月から次による専修別の実用機課程教育が開始された。
 この時期の戦況であるが、6月の19日に行われたマリアナ沖海戦(あ号作戦)で空母部隊及び各小沢艦隊は全滅し、飛39期学生卒業と同時に空母部隊、基地航空部隊に配属になた期友が早くも戦死した。その状況は前出の通りである。


池永 靖

伊勢
榛名

18・11・13
※304

練習機での地上作業中のプロペラ事故で殉職

霞ケ浦航空隊

町田正雄

日向
ラバウル

19・1・30
▲323

ラバウルでの勤務中の過労で発病し戦病死

東京同仁病院

B 実用機課程(約4ヵ月間)

戦闘機操縦 大分航空隊 75名
艦爆操縦(99式艦爆実習) 宇佐航空隊 23名
陸攻操縦 宮崎航空隊 12名
水上偵察機操縦 博多航空隊 5名
偵察術  宇佐航空隊 48名
卒業直前の殉職

19・ 3・ 1
※306

後藤正之

長門
ラバウル

戦闘機専修学生
(大分基地)

別府湾で

19・ 4・30
※307

金子和夫

長門
阿賀野

戦闘機専修学生
(筑波基地)

空中火災爆発


2、卒業そして初陣・赴任 (167名)

 このような戦況下での7月1日に次のとおりの所属が発令された。この発令が各期友の<「生死の分かれ目>となった。
 
 大部分の者が内戦航空部隊の練習航空隊付兼教官に配属され、錬成に勤め、戦況の進展により第一線の外線航空部隊はの進出にそなえた。外線航空部隊に配属され他者も多いあった。彼らは着任3ヵ月後 御身一つで前線に送り込まれて初陣し、10月10日からの「台湾沖航空戦」で26名が、続いて進出した台湾、フィリピンでの敵機動部隊の来襲に基地から出撃し、敵機動部隊索敵・攻撃と来襲敵航空機の迎撃戦闘で38名が還らなかった。
 
 これらの作戦、戦闘ですでに戦陣4ヵ月になる飛39期出身者は93名卒業のうち46名が大空に殉じて、残りの者は練度も向上して「Aクラス」となっていたが、卒業したばかりの飛40期出身者は偵察専修は<240時間>、艦爆専修は少し多くて<267時間15分>の飛行時間で、いずれにしても僅かな実績であったから、その実力は仮免許程度であったろうか。
  
 この頃になると、彼我航空機の性能は我にきわめて不利、米艦隊はレーダーによるCIC(戦闘情報中枢システム)航空管制下に行動する航空機相互の連係は完璧に近いものになっていた。
 「台湾沖航空戦」に参戦した期友から聞いたところを総合するに、CAP(航空迎撃管制下の上空直衛戦闘機群)の待ち構えた真只中に突入することになり、敵機はわが行動を逐1把握し上空から襲いかかったので、我が方にとってはその姿を発見できなかったという。しかも、このスクリーンをかい潜り艦船攻撃に向かった機も敵直衛艦の対空VT信管(小型レーダー装備)付の弾幕に無念のほぞをかんだであろう。10月末迄に22名が散華した。
 
 @比島に進出した山田良市(元航空幕僚長経験者)は、彼自身初陣では敵が見えなかったが2回目からは見えるようになったという意味のことを回想している。
 A高橋進は、「最前線で散華した多くの期友たちは連日の戦闘では衆寡敵せず散華し、毎日栄養剤注射を打ち乍ら、心身ともに疲労困憊し、斃而後己の教えを心に繰り返し、早く死にたいと思い詰める程凄愴激烈極まりないレイテ湾に対する神風特攻隊の直掩任務に明け暮れていた」と回想している。
 
 後方の練習航空隊に残った教官達は、後進の教育に専念し、戦局の進展に応じ漸次戦列に加わることになり、しかも初陣であり、優秀な歴戦の敵パイロットに対し苦戦し、散華し、特攻した。終戦時には39期が16名、40期は73名が戦闘余力を残したものの、度重なる空襲による機材の被害、必殺の湯野川、林富士夫の桜花特攻兵器も地上撃破され皆無となった。そして、富松唯利(大井航空隊)、岩崎保(徳島空)は練習機で白菊特攻編成待機した。
 上記のとおり、来敵に何らなすところない各部隊の指揮官、参謀の口頭命令で着替えと洗面用具だけを持って最前線に突入させられたわけであった。

 以下、終戦までの戦没期友の<死>の戦歴と、苦楽を共にし生死を分かち合った生存者の<生>の偽らざる記録である。





外戦航空部隊


(1)第1航空艦隊(司令部・在ダバオ) <比島に配備中,最前線のため、期友の配員なし>


(2)第2航空艦隊(司令部・高雄) <九州南部、沖縄を経由して台湾に進出した>

期友氏名

候補生時

専修

卒業時

卒業後の戦歴

戦没時

備 考

岩石博明

扶桑
木曾

偵察

141空

偵3(式艦偵)

19・10・10 

▲101

沖縄小緑

八島準二 

扶桑
香取

艦爆

19・10・12 

▲105

鹿屋基地

小熊善治郎 

山城
大井

偵察

偵4・攻405
(2式艦偵)

19・11・ 5 

▲164

クラーク基地

清瀬一弘

山城
アンボン

偵4(鈴鹿、白子、鹿屋、都城各基地を移動)

 

 

都城で発病
 (病院入院)

大月陽三郎 

扶桑
榛名

艦戦

221空

312(零戦)

19・10・12 

▲102

新竹基地上空

土井邦博

長門
大淀ギ

313
(零戦・特攻直援)

19・10・24 

▲129

マバラカット

鬼頭
 清一郎 

武蔵
翔鶴

19・11・12 

★168

アンヘレス

中島浩二

山城
武蔵

308(零戦)

19・11・14 

★182

 

嶋 幸三

日向

343空(迎撃)

20・ 3・19 

▲245

松山市郊外

田中公夫

伊勢
アンダ
ーマン

大村空
210空(戦309)

 

 

比島進出中・病気入院帰国

高橋 進

長門
鳥海

艦戦

341空

313(紫電)

    

回想あり(上述)

若林重美

長門
名取

401(紫電)

19・10・12 

▲104

高雄基地発進

染谷 甲

伊勢
榛名

19・10・25 

▲144

クラーク発進

増田洪志

長門
高雄

210空・谷田部空

   

台湾で発病帰国

竹林正治

山城
大和

402(零戦)

19・11・13 

▲171

 

有川純男

扶桑
ケンダリ

402(零戦)
特攻直衛

19・12・14 

▲197

701に発令直後の特攻直衛

中島誠也

長門
金剛

402(紫電)

19・12・15 

▲199

ミンドロ島

山田良市

武蔵
津軽

402(紫電)・戦701(紫電改)
・大村基地内地から台湾経由、ルソン島への進出後、内地に帰国発令(回想  下述)


(比島からの撤退作戦について注記)

 戦402(紫電)の比島状況・有川、中島、山田各中尉は昭和19年1月初め愛知県明治基地から命令によりマルコッと基地に進出した。
 同月15日付で有川と山田は戦701(松山の源田部隊・紫電改)に転属命令があったが、帰国の機会は容易でなく、同地で作戦中に有川と中島各大尉は夫々上記のとおり戦死し、山田大尉は同月25日に撤退を開始し、翌20年1月8日漸く松山に帰着した(「航空情報」昭和56年9月号から)。
 比島での戦闘は終末期にあたり、特に航空搭乗員、整備員の内地集結は最重要な作戦で航空機で、潜水艦で、駆逐艦での所謂「パトリナオ作戦」が実施されたが、被害のみ多く中断され、多くの搭乗員、整備員が帰国の機会を失した。期友についてはそれぞれの項で述べたし、以下でも述べる。 

(3)第3航空艦隊 <新編・八幡部隊として硫黄島方面作戦中の第27航空戦隊と横空の1部で編成>

期友氏名

候補生時

専修

卒業時

卒業後の戦歴

戦没時

備 考

平岡一万

長門
熊野

陸攻

762空

708
(新竹派遣隊)

19・ 9・16

▲100

台湾東方日施哨戒

川戸 浩

長門
日向

708(陸攻)

19・10・12

▲108
▲107
▲111
▲112

T攻撃部隊
鹿屋基地から発進
台湾沖航空戦

海岸照順

武蔵
ペナン

偵察

安達 裕

武蔵
長門

703(陸攻)

小島 威

山城
武蔵

多賀俊雄

日向
カビエング

艦爆

攻3(彗星)

19・10・14



▲112
▲116

 

長野重喜

伊勢
球磨

405(銀河)

永田
慶十三

長門
ラバウル

偵察

19・10・15

▲116 

池中 勇

伊勢
大和

256(天山)

19・10・16

▲123 

赤座 励

日向
ブイン

19・11・2

▲158 

ダバオ基地から

橋本邦一

山城
大井

801空

飛行艇

19・10・27

▲150 

四国の詫間基地から
索敵からの帰投時愛媛県山中に墜落(戦傷死)

谷木義朗

扶桑
山城

大艇

302(飛行艇)

20・ 5・13

▲282 

愛媛県詫間基地から発進


(4)第4航空戦隊 <634空、空母戦艦伊勢、日向に配乗予定であったが、陸上基地作戦に転用された>

期友氏名

候補生時

専修

卒業時

卒業後の戦歴

戦没時

 

備 考

斉藤松紀

長門
神通

偵察

634空

634空(瑞雲)

19・10・24 

▲133

東港から比島進出時、
東海岸カルロス町付近

田中 孝

日向
那智

艦爆

761空(攻05)
(彗星)

20・2・16 ▲236

香取基地から

中村恒夫

伊勢

偵察

20・ 3・19

★243

国分から特攻


(5)聯合艦隊隊に直属(後に第5艦隊に編入される)

湯野川
 守正

伊勢
阿賀野

艦戦

721空

桜花隊

  

小松基地で待機


(6)海上護衛総隊(対潜護衛空母神鷹、海鷹) <配乗航空隊・453空、901空、931空、936空>

期友氏名

候補生時

専修

卒業時

卒業後の戦歴

戦没時

備 考

湯嶋 務

山城
羽黒

偵察

931空

対潜空母神鷹配乗

19・11・19

▲176

船団中、黄海で敵潜により被雷沈没
鈴木正則▲が乗組員として配乗中

横田雅行

伊勢
足柄

19・11・29

▲177

東支那海航行船団護衛

志々目宜正

武蔵
長門

2座水偵

453空

951空(対潜哨戒)

20・ 5・ 5

▲281

指宿で地上被爆

荒木良満

伊勢
大淀

陸攻

  

松島空に発令

小川源嘉

日向
武蔵

偵察

901空

東港

 

 

高雄・マニ・高雄・三亜間を移動し朝鮮・元山に移動


(7) 各方面艦隊

12航空戦隊(北東方面艦隊所属)
<北海道等で編成、錬成したのち南九州、南西諸島、台湾を経て10月20日比島に進出>

佐野礼司

日向
鈴谷

偵察

502空

102(艦爆)

19・10・2

 ▲132

沖縄中継で

高田栄吉

長門
日向

103(彗星)

19・11・11

 ▲165

クラーク基地から


13航空戦隊(南西方面艦隊、司令部・在マニラ)
<内地で編成されたが、燃料の豊富なスマトラ島方面に移された>

期友氏名

候補生時

専修

卒業時

卒業後の戦歴

戦没時

備 考

白石正義

日向
バラレ

艦戦

11空

ゼロ戦
B29迎撃

20・ 2・ 1

▲221

マレー半島

青井完吉

長門
日向

601空(戦308)

 

大和基地

江上純一

山城
青葉

381空        

ジョホールで抑留

村上勝已

山城
鈴谷

艦爆

12空

シンガポール

20・ 5・ 3

★279

シンガポールから新竹経由、沖縄攻撃

川西正一

伊勢
ペナン

陸攻

13空

ペナン

20・4・30

▲278

小田野
忠二郎

扶桑
摩耶

特攻701空  

20・ 6・19

▲291

高雄経由沖縄
周辺に進出攻撃

大田黒義男

扶桑
飛鷹

艦戦

31空

601空(戦311)
(零戦)

   

築城基地に帰国

岡本俊也

武蔵
羽黒

永仮良行

日向
竜鳳

305空(台中)

台中で抑留


支那方面艦隊の航空隊

槇 恒方

武蔵
鹿島

艦戦

254空

901空(零戦)

20・ 1・16

▲227

海南島・三亜で迎撃

山口守人

長門
名取

20・3・20

▲230

 

手島又男

伊勢
川内

  

三亜・元山・小松

石井 恒

山城
羽黒

256空

比島に進出の途中

19・11・15

▲162

陸攻に便乗中

厚地篤彦

日向
筑摩

上海B29迎撃

19・11・21

▲181

このB29が大村を空襲
坂本が体当戦死

岡 文男

日向
ラバウ

偵察

903空(対潜東海)

  

 

第2千歳基地


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