鹿村和則を編集委員長として『洲ノ埼海軍航空隊・兵器整備学生自分史』なる回想記が平成五年十月発刊され、それによるとこの課程に入った期友の養成と、彼らのたどった人目につかない、苦難の多かった戦陣は次のとおりである。
昭和18年6月1日、少尉任官と同時に(下記の)期友15名と機関科のコレス5名が新設の洲ノ埼航空隊に着任した。館山航空隊に隣接した練習航空隊で、1年という期間を、ようやく熾烈になってきた戦場から離れてしまういらだちを抱いていたが、第1期という自覚も強かった。
当時は、航空主兵思想がやっと海軍部内に浸透してきた時期ではあったが、その先駆者たちの頭は操縦技術、機体性能にのみ関心が集中し、航空兵器の機能向上に目を向けている人はほとんど存在しなった。その優秀な操縦技術と機体性能によって勝ち得た緒戦の優勢も退勢に傾くのは早かった。操縦、機体、搭載兵器が一体となって強力な戦闘航空機となることに気づかず、また、兵器の重要性が忘れ去られていたのである。こうした戦局の中へ、19年5月、教程を終えた兵器学生達は、兵器分隊長という新分野へ進出して行った。マリアナ沖海戦で池田健吉が、エンガノ岬沖海戦では青山清が、それぞれの乗艦沈没で戦死した。基地航空隊では飛行機が転進した地上員は陸上戦闘員となって、グアムで杜三義が、ルソン島のクラーク地区周辺で佐藤孝と松山愛が奮戦した。航空兵器に生き、陸戦で死んでいった3名の心情を思うとき慟哭を抑え難い。
当時、南方基地には魚雷調整班という部隊があった。航空魚雷を常時調整保持し、進出してきた攻撃隊に供給する部隊であり、田辺敏亮、中野吉郎、松下 豊、山尾蔦樹の四名が各調整班長として活躍した。攻撃員達は彼らが調整した魚雷に全幅の信頼をおいて飛び立っていったことだろう。内地航空隊で研究、教育に携わった者も、その結実をうるところなく終戦を迎えた。
兵器学生の存在は、戦史に何も書き留められることもなく、第4期(兵74期、機53期)の60名が学習中にその歴史を閉じた。この航空隊も閉隊となり、今は宅地化した一隅に、『昔ここに洲ノ埼海軍航空隊ありき』の碑が残っているのみである。航空隊員だけが戦争をしたというわけでなく、このような裏方さんの苦労があってのことであった。そして、彼らの多くは後送される事もかなわず、終戦で現地に取り残され、戦没し、戦後抑留された。
1、第1期航空兵器整備学生出身者(18年6月1日 〜 19年5月1日) |
(備考)
「▲」印の後に続く数字は例えば060は60目の戦死者(下記の池田健吉)を示し、『同期の桜海兵第七十一期』の頁143のヘッダー(上部余白)に示してあるので詳細にその戦没状況を知りたい方は本分を読まれたい。
期友名 |
候補生時 |
学生卒業後の配置 |
戦没状況 |
鹿村和則 |
扶桑
多摩 |
・652空(隼鷹配乗)
・634空
・洲ノ埼空教官 |
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松山愛とマニラで交代帰国
松山▲については後述 |
池田健吉 |
山城
翔鶴 |
601空(翔鶴配乗) |
19・6・19 |
▲060 |
サイパン沖海戦で母艦沈没 |
青山 清 |
山城
大和 |
653空(千歳配乗) |
19・10・25 |
▲145 |
エンガノ岬沖海戦母艦沈没 |
杜 三義 |
武蔵
陸奥 |
755空
マリアナ空 |
19・7・27 |
▲087 |
来敵で陸戦に移行
武田元孝と一緒
グアム島玉砕
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佐藤 孝 |
長門
飛鷹 |
753空(攻404)
<クラーク山中で> |
20・4・15 |
▲215 |
寺部甲子男の「若葉」で進出
後陸戦で重傷担架で避退中 |
清水文郎 |
長門
ケンダリ |
202空
戦305
横空(教官) |
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トラック・ペリリュウ・ダバオ・台湾から帰国 |
平城弘文 |
日向
愛宕 |
721空兵器(攻401)
台南空分隊長
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香取・グアム・クラー・台南から帰国 |
高須須一男 |
伊勢
武蔵 |
553空(兵器) |
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特修科・横空付・3航艦司付帰国となり帰国 |
田辺敏亮 |
伊勢
長鯨 |
29魚雷調整班長
<ケンダリ・パレンバン> |
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シンガポール等で抑留 |
松下 豊 |
日向
山城
隼鷹 |
32魚雷調整班長 |
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スマトラで抑留 |
中野吉朗 |
日向
香椎 |
34魚雷調整班長<高雄> |
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台湾で抑留 |
山尾蔦樹 |
扶桑
9特根 |
35魚雷調整班長<新竹> |
奥津 汀 |
日向
アンボン |
館山空兵器分隊長 |
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アンボン(発病により帰国) |
川田竜雄 |
山城
ラバウル |
洲ノ埼空隊教官 |
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滝 民雄 |
長門
隼鷹 |
横空付→特修科→横空付 |
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2、第2期航空兵器4、その他の課程出身者整備学生出身者(18年11月から19年11月まで) |
芥川義実 |
長門
大和 |
南西方面艦隊司令部付<マニラ→バギオ>→比島での山岳戦を生き抜きバギオギで抑留 |
大野隆司 |
伊勢
カビエ
ング |
特修科・電測学校(在藤沢空)、海護総隊付 |
3、第3期航空兵器整備学生出身者(19年5月から11月まで) |
浅利知夫 |
山城
扶桑 |
252空兵器分隊長・ 館山基地・茂原 |
松山 愛
▲214 |
日向
陸奥 |
・39期飛学生終了後の20・4・10 神ノ池空で右眼失明により転科
・鹿村の後任として輸送機で比島に着任
・後クラーク山中の陸戦で戦死 |
梨本徳彦 |
武蔵
大和 |
・大和・榛名・電測術特修科(航空)・横空教官 |
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