(戦況) マリアナ沖海戦が終了した約一か月後のことであり、一〇月中旬には彼の勤務地台湾に敵機動部隊が来襲し、いわゆる台湾沖航空戦が火ぶたを切ることになる時期であった。 河口太門中尉は第三十九期飛行学生で一九年一月末の卒業、岩佐之中尉は第四十期飛行学生出身でその半年後に卒業した。 彼らの間に職務上特に関係があるわけではないが、卒業後それぞれ台湾の基地に赴任し、来るべき来敵に備え実力錬成に努めていた最中に相前後しその職に殉じたのである。 河口中尉は第二六五航空隊附として台湾の新竹基地に着任した。この航空隊は、四月下旬サイパン方面に進出するよう命ぜられ、これに備えて猛訓練中であった。 四月一日零戦に搭乗して基地を発進し訓練中の河口機は、午後四時○分新竹州中歴郡揚梅街老杭七〇番地の道路より五〇米の山腹に激突し、河口大門中尉は殉職した。 岩佐之中尉は、台南空教官として児玉光雄中尉、渡辺清規と共にこの地に着任した。 七月一四日、零戦に搭乗し追跡訓練中の午前八時一九分、高度八百米から水平鍾もみとなり、安平監視所(台南州)の北方約四粁の海中に突入殉職し、一六日になって遺体が収容された。 |