昭和一九年春、彗星艦爆は、漸く実力を発揮しつつあったが、内地訓練中及び戦地より原因不明の空中分解の報告が多く、しかも急降下の事故で搭乗員が死亡しているので、関係者はその原因探求に苦心しながら、引き続き生産、飛行継続をしなくてはならなかった。 三木(肥田)開、高橋義郎たちの実験担当者は、文字通り必死の覚悟で探求に努めたが、見るべき成果を得なかった。流石の海千山千空千の横空のパイロットの中にも何となく彗星の急降下実験を回避するような気運が見えていた。 原因不明のまま、機関科七〇期コレスの相田大尉が、又七一期コレスの大山中尉の殉職が起り、遂に71期の北川、伊達の操縦、偵察コンビが辻堂の爆弾投下演習場に急降下実験中、空中分解殉職した。 本来ならば、操縦の北川の後席はベテランの准士官か下士官の偵察員、また偵察の伊達の前席操縦は准士官下士官の操縦員が正規の編成であったが、上記のような空気があり、同期で然も東京出身同志の仲の良い北川、伊達が顔では笑いながら心の中では死を決して一緒に実験を繰返した。 事故発生の一九年七月一八日は、三木は一番機で三機編隊の反覆実験で演習爆弾を三個投下したように記憶している。飛行機間の無線交信は実施せず、予期以上に強い追い風の為、降下角度が最後には六〇度にも達し、照準修正に苦心しながら何時も深い降下角度から強いGで引起す事で定評のあった北川がどうしているか、と考えながら帰途についた。 三木が帰隊した時には、もう事故の報告が入って居り、直ちに現場に急行したが、急降下最終段階の分解事故であり、その地上激突の惨状の中であった。 |