村松功大尉は、飛行学生修業後の山九年六月未、百里原空勤務となり美田雄次郎、桑原知(二〇年二月一日特攻突入)、岡本俊也(偵四に転出後殉職・前出)と共に着任した。 一二月一一日銀河陸爆に搭乗、後席に美田雄次郎を同来させての訓練中に突込み殉職した。美田も重傷を負ったという。 二〇年一月五日、正月休みもない戦時下であり、筑波基地で同空の教官田野功大尉が紫電戟闘機の事故で殉職した。 この航空隊には小林幸三、木原俊秀、山下格の三期友が田野大尉といっしょに着任した。彼らは、一二月未開東地区に来襲した敵機動部隊を遊撃中に戟死したことは既に述べたところである。当然田野大尉もこの迎撃戦に参加しておったのであろう。彼が殉職した最期の状況についての資料は見当らない。 |