(戦況) 二〇年三月三一日朝、松島苺地から霞ケ浦基地にある司令部に出張する松島航空陳司令坂田義人大佐を送るため、同隊分隊長曽山威八大尉機が僚機一機と共に出発した。沖縄本島に米攻略軍が上陸した前日であり、重要な会議であったろう。 当時同隊に勤務していた予備学生出身の向坊寿氏著の「帽振れ」にこのことが出ており、この日松島地区は午後も遅くなって濃霧が来襲し飛行作業が中止されたと述べられている。会議を終えて帰投してきた司令の一行は着陸ができず雲上飛行を続け霧のはれるのを待った。時刻はどんどん過ぎ、基地では夜間着陸の準備をして待ったが着陸はできなかった。夜に入り八時二五分になって突然連絡を絶ってしまったという。燃料が切れ、機位を失って不時着したのであった。その後行なわれた必死の授索にもかかわらず機体は発見されず、坂田司令、曽山分隊長ほか二機の乗月の総革一二名が殉職と認定された。 その後、司令の遺体が仙台の近くの海岸で収容されたと佐野好男は回想する。機位を失い、燃料も尽き海上に不時着し脱出する暇なく沈没したと推定される。温厚沈着な曽山成人分隊長の姿を再び見ることができなくなったのである。 曽山大尉は、四十期飛行学生を終えて佐野好男、渡辺義昌(四月二六日出水基地で戦死)と共に宮崎空に着任し、その後三十九期の本多昭夫などと松島に集団移動し、松島空所属となった。その後出水基地に進出作戦に参加したと本多と佐野は回想する。そのとき渡辺義昌大尉が戦死した。 筆者は戦後、脚機に便乗し下総基地から八戸基地に出張した時、同じような濃霧にあった経験がある。その時の霧と昔の霧に変りはないと思うが、電波航法の発達した現在、若いパイロットは無事着陸してくれた。あの時このような電波航法装置があったらばと残念に思う。 |