寺村純郎はその著書で 《半年前の一九年六月厚木に着任してから、毎日の訓練に多くの人が死んでいった。一緒に着任した同期生の中で六人は転勤していったが、その中の三人はすでに比島であるいは硫黄島で死んでいった。そして厚木では九月に上野博之をやはり雷電の不時着で失ない、上野のあとに私の部屋へ移って釆た月光(夜間戦闘機)の森本和次を一〇月に失った、と当時を回想し、殉職した期友を追悼している。四十期の飛行学生を終、え三〇二空に着任した期友は次の八名であり、三十九期の数野正幸があった。 入江静則、池田春男、市村吾郎、上野博之 寺村純郎、中野嘉稔、西尾 漸、森本和次 数野中尉が硫黄島、池田春男大尉が台湾で、そして入江大尉が厚木で戦死した。 九月一一日の午前九時一〇分、上野博之中尉は、「中攻」遊撃訓練の目的をもって雷電一二型に搭乗、由井中尉の三番機として厚木飛行場を離陸したが、雲のため一番機を見失いそのまま単機飛行を続けるうち、発動機不調となり、九時五〇分に高座郡小出村芹沢の水田中に脚フラップを収めたまま不時着した。機体は大破し、救肋隊が駆けつけた時には上野中尉は既に殉職を遂げた。 それから約一か月後の一〇月九日、月光夜間戟闘機(複座)に乗って基本空戦訓練のため飛行中であった森本和次中尉機が横浜市戸塚区上郷町犬山(いのやま)の山腹に激突して、機体が飛散し、森本中尉も同乗者も殉職した。 森本機墜落の現場は、三〇年後の今日宅地造成のため大きく変貌し、わずかに昔時を偲ぶ沢が残り、遺体や機体を集めた橋が現存する。霞空時代同室であった富松唯利が上郷町内に居住され、当時何かと世話してくれた土地の古老(森正成氏)の御案内で、四九年一二月の或日現地を訪れ、花束を供えて冥福を祈ってくれた。 |