尾内敏二は、元年四月二〇日発令で戦艦武蔵からアンダマ,新島守備の第二一特別根拠地隊附兼分隊長となり、遠路着任し辺地での勤務に従事していた。戦局が急迫しフィリピン沖海戦で敗退後は印度洋のこの地区にも英艦隊が出現するようになったこの時期、腸閉塞となり、一二月二〇日午前九時三〇分ポートプレヤーの基地病院で死去した。 このアンダマンには少尉候補生実務練習終了後に日向大美(台湾沖航空戦で戦死)、山崎仁郎、浅子義信、田中公夫の面々が約六か月間勤務した。その後カーニコパルの 警備に設楽一郎、旦尚節夫が勤務している。その後を受けての勤務であった。 アンダマン諸島は、印度洋東部に浮ぶ列島で首都はポートプレヤーであり、熱帯の島々に強い太陽と濃い緑の椰子が印象的とのこと、町の中心はこの町で最もりっばな建物である監獄で、英国はこの孤島に植民地印度の政治犯と凶悪犯を収容していたという。 日本軍は一七年三月二三日この諸島を占領している。森和夫の実兄で兵学校時代の我々の教官森栄大尉(当時)が占領当時一二根所属で周辺海域の洋上哨戒に当り、北はラングーンから南はスマトラ島西端サバン島まで、一二節(ノット)で行っても約三日間を要したという。尾内中尉もこのような任務に従事したかも知れないと想像する。 |