新谷隆好君は、攻撃第五飛行隊分隊長で終戦を迎え故郷の異に復月した。戦争中発病したことのあった胸の病気が再発し、戦後の混乱期で食糧も不足の時代であり、家族の温い看護にもかかわらず、特効医薬品もまだ入らなく、復月の翌年三月二八日不帰の客となった。戦争中の発病であり戟病死と認定されたのである。 森和夫君は、期会名簿に「病死」となっているが、厚生省援護局の戦没者名簿では「戦病死」と認定されている。軍艦榛名に乗艦中の二〇年五月二〇日発病、.直ちに呉病院に入院し、それまでの戦陣の無理で「公務羅病、左胸膜炎」と診断された。戦局は日に日に悪化し八月遂に終戦を迎、え、同君が何日退院復月したか不明であるが、自宅に帰り療養していた。新谷君同様に終戦直後のことであり、十分な療養も出来なかったであろう、二二年二月二日午前一時死去した。 三宅春彦大尉は、駆逐艦蔦の水雷長旨んて勤務中、二十年五月発病、後任者の着任を待てず呉海軍病院に入院した。病名は腸結核であった。その後、別府海軍病院に移り療養専念中、終戦を迎えた。 一時家族の元に帰っていたが、病状が進み再入院し、結核がまだ不治の病であった時代で、戦後の物質不足もあり、ニ十年三月十五日、不帰の人となった。戦中の発病であり、戦病死と認定されたが、五十六年まで御遺族との連絡がとれず、長い間淋しい思いを掛けた。」 |