五月の作戦 五月に入ると沖縄諸島の攻略作戦を担当していた米機動部隊はその任務を終ったのであろう、一部を陸上戦闘の支援に残して根拠地に引き揚げていった。この機動部隊に代って、沖純戦線増援のためらしい大輸送船団が北上しているとの情報が入り、航空部隊は天候の回復した三日に沖縄周辺の敵艦船に対し薄暮攻撃を、そして翌四日に菊水五号作戦を決行した。 欧州戦線においては、ドイツの戦力は底をつき五月一日ヒットラーが自決し、三日にべルリンが陥落した。
村上勝己大尉の所属する第一二航空隊は、第一三航空隊などと共に昭南(シンガポール)方面にあって飛行練習生の養成に当ってきた。戦局の進展によって、これら錬成航空隊も配属実用機を第一線に充当することとなり、同航空隊の艦爆隊と艦攻隊で神風特攻隊振天隊が編成された。その隊員に志願した村上大尉は、台湾方面に進出してこの時期新竹基地にあって作戦していた。 五月三日、九九式艦爆四機と九七式艦攻二機を率いて、自らは艦爆に搭乗した村上大尉は午後四時二〇分基地を発進した。そして他部隊の天山艦攻特攻四機と共に沖縄周辺の艦船に薄暮特攻を敢行して帰らなかった。 この特攻作戦を望見していた久米島のわが守備隊の報告によると、艦爆機の急降下により掃海艇及び駆逐艦を撃沈し、更に巡洋艦に体当りしてその艦を炎上沈没させたとの記録が残っており、村上機が艦爆であったから、この報告は村上隊の突入状況であったと認められる。 戦後の米資料にも、この日の米損傷記事が《駆逐艦三隻が沈没し、軽巡バーミンガムが損傷、その他駆逐艦五隻と貨物輸送船一隻に損傷あり》とあり、久米島守備隊の報告を裏付けしている。 五月四日は総力を挙げて菊水五号作戦が実施された日である。この作戦に参加した海軍機は三〇〇機であり、その内特攻一三六機であった。 この日の特攻で末帰還となった六一機のほかに、一般機の未帰還四機があり、その中に九〇一空の松友省平大尉が入っている。
九〇一空は元来対潜専門の航空隊であり、松友大尉も艦攻でこの任務に従事していたが、この日は前席操縦員鈴木俊夫飛長と共に午後一一時に串良基地を発進し、翌四日の早朝行なわれる沖縄北中飛行場沖の敵艦船に対する夜間雷撃に参加し進撃中に、炎奄美大島西方で敵夜戦と交戦したらしく》 そのまま消息を絶った。 四月に入ってからは、本州南方の航路が危険にさらされ、主要航路は、次第に日本海側に圧迫されるようになってきていた。
九五一空は、前出の九〇一空と同様対潜航空部隊であり、三座水上偵察機の志々目宜正大尉は、指宿基地に分派され、夜間索敵、対潜哨戒に従事していたと、「九五一空戦関詳報」に一般的な表現でその任務が記録されている。 五月五日は端午の節句であったが、戦争に休みはなく、この日も南九州地区は敵大型機の空襲を受けた。指宿水上基地にもB29一二機の面爆があり、「九五一空戦闘詳報」の記録によると、志々目宜正大尉は、一五時四〇分機上で戦死となっている。 それまで夜間索敵、対港晴戒など連日連夜の活躍をしていただけに、大空にでなく地上での被爆は残念であったろう。せめてその最期の詳細を明らかにしたいと思い調査したところ、桑原茂樹が同じ航空隊所属で、この頃この基地の派遣隊長となっていることがわかり、或いはと思い問い合せたが、彼が着任した時には既に志々日大尉は戦死した後であったため、詳しいことは遂に知るこができなかった。 |