五月七日にドイツが降伏し、連合軍はそれまで欧州戦線に充当していた兵力を逐次太平洋方面に投入し、全力を日本攻略に指向することになった。 一二日夜の九州地区は敵夜戦の来襲によって予定されていた夜間攻撃機の発進ができなかった。敵の夜間戦闘機が出現したということは、取りも直さず近くに敵機動部隊が所在することを意味する。 果せるかな同日早朝、撃星索敵機が佐多岬南東に機動部隊群を発見し、彩要五機で索敵触摸させたところ、午前九時に都井岬の一三〇度り七〇浬にその所在を確認した。
谷木義朗大尉は、二二日午後七時三〇分に九七式飛行艇二三型の機長として、搭乗員准士官以上二名、下士官兵九名をもって単機で詫間基地(香川県)を発進し、指宿経由で第一索敵線を南下し、南西諸島東方海面の夜間索敵哨戒に当った。 九時三八分地点「ヒカ三ツ」(種ケ島北端の東約一〇五浬の地点符号である)において、敵夜戦の追跡を受けるとともに織烈な対空砲火を受けた。敵機動部隊の所在海域に到達したのである。 この時、谷木機は、レーダー(電探)が故障していたので目視偵察を強行し、二分後に空母を含む敵部隊を発見し、これに触摸を開始した。 一〇時一五分、〈電探故障ヲ復旧シ、触接ヲ続行〉の報告を発した後、連絡を絶ってしまった谷木機はおそらく夜戦に捕捉されたのであろう。 以上は、「詫間海軍航空隊戟闘詳報」に記録されている谷木大尉の最期であり、この散発見電は菊水六号作戦を成功に導いた重要な意義をもつものであった。
小早川浩大尉は同じ一三日、本州南方の敵機動部隊を索敵攻撃のため、陸攻の機長として、午後七時美保基地から中国山脈越えで単機出撃し、一〇時一八分以後消息を絶ってしまった。 小早川大尉は、陸攻から銀河に機種変更し陸攻となっていた。 攻撃を終った敵機動部隊は南下したのであろうか、その後その所在を発見することがなかった。五月前半の戦闘は菊水五号作戟を境にして戦果も挙がらず、実用機も底をついていよいよ練習機「白菊」を主体とする苦しい特攻作戦に移っていく。二三日決行予定の菊水七号開始まで、連日にわたって索敵を行なったが、敵を発見することはできなかった。
攻七〇二の深谷肇大尉は、一六日銀河六機を率いて午後六時五〇分ごろ基地を発進し、沖縄飛行場及び所在艦艇の攻撃に向った。巡洋艦一隻に魚雷命中、艦種不詳一隻に火柱の戦果を挙げたが、深谷隊長機と他の二機は攻撃後行方不明となり帰還しなかった。 深谷大尉は、前所属の攻七〇四に勤務していた一九年一一月二九日に、硫黄島からサイパンを夜間攻撃した作戦に参加し、チャチャ飛行場に全弾命中させ無事帰還したと同隊の戦闘詳報に記録されている。
九五一空の片岡力大尉は、沖縄西方海面の敵艦船雷撃の命を受けて、搭乗員書留東、国房正夫(階級不詳)と共に、一八日午後一〇時〇二分串良基地を発進していったまま消息を絶ってしまった。諸般の状況により、当夜二四時三五分自爆戦死したものと認められている。 彼の所属した九五一空は、護衛専門の航空隊であり、志々日大尉と同じ隊であり、各地に派遣隊を分派していた。 片岡大尉は、桑原茂樹が同航空隊の指宿派遣隊長に転出した後任として古仁屋派遣隊長に着任しており、それ以来この方面で活躍を続けていた。沖縄に敵釆攻以後南九州方面に移動していたと思う。
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