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マリアナ沖海戦・二航戦の攻撃隊
 (第六五二航空隊) 荒川不可思


海軍大尉 荒川不可思の戦歴
伊勢 39期飛学生 築城空 553空 652空
一九年6月19日戦死 二一才
県立武雄中学校(佐賀)
 
父伝右衛門 母ミ子
第2分隊の通信係 馬術係

  (戦況) 
 
 この攻撃隊は、天山艦攻七機、戦爆二五機、零戦一七機からなり、天山隊には第二小隊長として谷川洋一中尉が参加していた。谷川中尉は、この日の午前一〇時僚機とともに飛鷹を発進して「七イ」目標に向った。
 
 発艦間もなく「三リ」目標(これは敵第五八任務隊の北端隊であった)に向うよう命令の変更があった。ところが通信状況不良で大部分の機はこの命令を受信できずに、元の目標に向かい、結局敵を発見できず、戦爆一六機と零戦四機が母艦に帰投した。
 
 命令を受信した二〇機は新目標に向ったが、その途上で戦艦二隻を含む一群を発見している。この攻撃隊は、その目標には目もくれずに指定された空母群をもとめて進撃し、一一時四五分に予定地点に到達したが、その附近に敵を発見できなかった。そこで、先に発見した戦艦群をあらためて目標に定め、ニれに向って進撃した。その途中、敵戦闘機四〇機以上の攻撃を受けて避退、一部が午後一時三〇分ハーリル隊を攻撃したが効果はなかった。この攻撃隊は、既にクラーク戦艦部隊のレーダー綱によって、その真北九九浬に探知されており、そのため敵にその戦闘機をさし向けられてしまったのである。

 攻撃を終ったこの攻撃隊は午後四時過ぎに前衛を経て帰投している。この空戦で敵四機を撃墜したが、我も七機を失った。
谷川中尉は無事帰還した。
 
 荒川中尉は、谷川中尉と共に三月三日附でこの飛行隊に配属され、「隼鷹」に配乗を命ぜられていた。そして九九式艦爆隊の第二小隊長として操縦員中竹悟飛曹長とともに初陣をかけてこの作戦に参加した。
 
 この攻撃隊は、彼の属する九九艦爆隊と彗星艦爆隊からなり、予定としては、発艦後統一行動をとって目標「一五リ」に向い、攻撃終了後はグアム島に帰投することになっていた。しかし、この二隊は、統一行動ができず別別に進撃している。
 
 荒川中尉の属する九九艦爆隊は二七機の艦爆七三機の天山艦攻を零戦二〇機が直後して午前一〇時言分上空を発進し、予定地点に達したが「一リ」目標の位置に誤差があって、敵を発見できず、しばらく附近を捜索した後グアム島に向った。別動した彗星隊は、ロタ島に向う途中一部が敵を発見攻撃した。わが軍の状況をモリソン戦史は次のとおり述べている。
           
 日本攻撃隊は、午後二時四九分グアム島にかなり接近した時、着陸準備のため搭載していた爆弾を投棄した。米艦隊は、この状況をレーダースクリーンに捕え、カウバンスの戦闘機隊一二機がこの日の最後の哨戒戦闘機隊として遊撃に発進した。
 
 隊長ブラウン中佐は、《オロート飛行場、A3地点に旋回中の敵機約四〇機、その内車輪を出したものを攻撃せよ》と下令した。
 
 たまたまこの時、エセックスの戦闘機七機、ホーネットの八機が戦闘に加入、この二七機のヘルキャットで敵機を攻撃した。ホーネットの二機は、内一機は夜戦、敵爆撃機が着陸のため旋回している真月中に突入して五機を撃墜し、自分達は無傷であった。オロート飛行場にかろうじて着陸し得た敵一九機は被害甚しく修理不能の状態であった。

      
 
グアム島に到着した荒川機は、この米資料からするとホーネット隊機に捕捉されたのであろうか、この若武者は敢然として急上昇し交戦に入ったと聞く。そのまま着陸すれば機体はやられても、来月は脱出できる状態であったとも聞く。防衛研修所戦史室にあるこの日の「六五二空戦闘詳報」の荒川中尉の欄に《機上戦死》と記録されているのが、彼の最期を記す唯一の資料である。
 
 グアム島に無事着陸した彗星一機と九九式艦爆八機がその後ヤップ、パラオを経てダパオに帰着し、この隊の状況が以上のとおり明らかとなったのである。
 
 このオロート飛行場では、期友武田元孝中尉が基地防空に、杜三義中尉が兵器整備に当っていた。この基地員達がこの死闘を地上から見ていたであろう。

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