(戦況) 決戦場に進撃中であった機動部隊は、一八日の午後三時四〇分に本隊の東方に三か群の敵空母部隊を発見したが、攻撃終了後帰艦する飛行隊の収容が夜間となることをおもんばかり、この日の攻撃を断念し、一九日の早朝に敵の南方から攻撃することにして南方に避退した。 一五日にサイパン島に上陸した米攻略軍はその朝から全線にわたって攻撃を開始し、アスリート飛行場を占領して午後にはウラウラ湾に進出、ナフタン岬方面の守備隊を孤立状態にさせる等、上陸初日に我が航空基地の無力化に成功した。なお、後述するところであるが、サイパン島にあった横須賀第一特別陸戦隊(落下傘部隊)はこの日の夜斬り込み突入を断行したが、全滅し四名の全期友が玉砕している。 基地航空部隊は、サイパンが使用できなくなったためペリリユーを基地として作戦し、サイパン周辺を行動中の敵機動部隊と輸送船団に対し連続攻撃したが次第にその兵力を消耗していった。第五ニー航空隊もその全力を挙げて勇戦し、銀河搭乗の前田前書中尉も連日の出撃に参加している。 この航空隊は、一八日にはまず彗星四機が出撃して敵巡洋艦を撃破して帰投、次いで彗星と前田中尉の参加した銀河八機がサイパン島の一一〇度二〇浬の空母三隻、戦艦二隻、巡洋艦一隻とそれを護衛する四隻の駆逐艦からなる敵群を、そして零戦爆撃隊が輸送船団をそれぞれ攻撃した。当時報告された戦果は大きかったが、戦復刊明した米側資料によると米機動部隊には被害がなく、給油艦二隻に損傷を与えたに過ぎなかったとされている。この攻撃で前田前書中尉を含む銀河七機、零戦二二機その他二機を失った。 前田中尉の所属する五ニー空(銀河・鴻部隊)は前出のとおり中部太平洋の風雲急を告げる四月一八日と五月一五日、二回に分れて木更津からグアム島に進出、連日索敵作戦に従事している。特に一五日以降は戦勢急迫し、前田中尉も休む暇なく出撃していたが、この日は、グアムの大宮基地から出動し遂に帰らなかった。その最期を確認したという記録は見当らない。 兵器整備分隊長の平城弘文は、八月ごろペリリユー島を経て館山に帰って釆ていたという。 |