(全般戦況) 六月一五日の早朝から、米軍はサイパン島の攻略を始めた。この報告を知った聯合艦隊司令部は、午前七時一七分〈「あ」号作戦決戦〉を発令して、所在の基地航空部隊に攻撃開始を、新にその指揮下に入った横須賀航空隊を主力とする八幡空襲部隊に硫黄島に進出することを命じた。 敵は、サイパン島攻略を妨害するであろう日本軍の内地からの増援基地となる小笠原諸島に、機動部隊の一部を分派して所在のわが航空兵力を攻撃し、ほとんど全滅させてしまった。わが軍は、期待の八幡部隊の進出も天候不良のため所期のとおり進まず、所在基地航空部隊の勇戦にもかかわらず遂に決戦部隊たる空母機動部隊の行動に応ずることができずに終ってしまった。 勇躍してタウイタウイ泊地を出撃した空母部隊を裸のままで取り残し、敵機動部隊の確たる情報を得られないままに、初めて出現した空母部隊を裸のままで取りもどし、敵機動部隊の確たる情報を得られないままに、初めて出現した敵艦隊のレーダー網の元で管制された敵邀撃戦闘機群に奇襲されて、多数のわが航空機をマリアナ西方海域に失い、更には敵潜水艦に大鳳と翔鶴を、敵機の攻撃で飛鷹をあえなく喪った艦隊は沖縄の中城湾に引揚げた。 以上がこの海戦の概要であり、世紀の空母どうしの航空決戦も彼我撃刀の差を明らかに反映してむざんな結果に終ったのである。 この作戦に我々の期の三十九期飛行学生出身パイロットたちが機動部隊の空母から、そしてサイパン、テニアン等の陸上基地からそれぞれ初陣としてはせ参じたのであるが合計三名が未帰還となっている。また水上部隊でも、そして水中から邀撃した潜水艦でも多くの期友が撃沈された艦と運命を共にし、サイパン、テニアン、更にグアム島の警備に当っていた部隊に配属されていた期友が上陸米軍と交戦玉砕した。その数は合計実に三八名の多きに上っている。
五月三日、小憲諸島に敵機動部隊が来襲したのであるが、敵のその企図が何であるか判然としなかった。 とりあえず、本土近海に敵艦隊が来襲した場合の対応策として計画されていた「東」号作戦が発令されて、全土にわたる哨戒を実施し、厳戒態勢に入った。 東号作戦部隊の主力であった七六二空、嵐部隊の戦闘詳報によると同航空隊に配属されていた伊藤正臣、沢柳彦士、和田義姉の三名の中尉が木更津基地からの哨戒に参加していた記録が残っている。 厳重な哨戒を実施していたところ、二四日になって、ウエーキ島か敵機動部隊の空襲を受けたという報告があり、敵の攻撃企図がわが本土ではないということが判断され、この作戦は同日中に中止された。しかし、敵に対する海上の小舟艇による哨戒と航空機による日施哨戒は続行され、各地の基地からは連日哨戒機が飛び立っていった。この哨戒に宮崎空の中山栄一中尉、来港(台湾)から宮崎恭昌中尉が参加していた。 九〇一空は、第七編で後述するとおり、対潜水艦専門の航空隊として発足したもので、当初は飛行艇を主力としていたが、その後中攻、艦爆を、更に戦闘機をも加わえており、多くの期友が配属された。その本部は、台湾の南部にある来港に置かれ、分遣隊が比島等の占領地に多く設置されていた。主任務は対港晴戒と船団護衛等であった。 六月に入り、一五日敵のサイパン攻略が明らかとなり、「あ」号作戦が発令された。一七日、東港にあった宮崎中尉は、比島マニラ港外のキヤビテ水上基地に進出を命ぜられて、午前一〇時五〇分、九七式飛行艇の機長として同基地を発進した。ミンダナオ島東岸沖をマリアナ西方海域に向けてわが空母部隊が進出している時期であり、宮崎機はルソン島東方海上の索敵を命ぜられ、南下していったと考えられるが、正午を三〇分過ぎた時点以後この飛行艇と基地との連絡が絶えてしまった。同機には宮崎中尉以下の搭乗員八名のほかに進出のための地上整備月六名が便乗していた。 この機の最期は全くつまびらかでない。基地発進後、約一時間四〇分の後であることから、その概位のみは推定することができる。 基地に報告するいとまもない突然の事態発生であったと考えられる。三十九期飛学生期友の中、作戦参加で戦死した最初の期友となってしまったのである。 六月一九日は後述するマリアナ沖海戦のあった日である。その二日後すなわち二一日に中山栄一中尉は、(九六式陸攻にて宮崎 大海指第三九八号による索敵哨戒)を命ぜられて、宮崎基地から出撃していった。そして哨戒中、発動機に故障が生じたので引返しを決意して帰途に就いたが、午前九時一五分ごろ宮崎の一三七度一五〇浬附近で基地との連絡を絶ってしまった。おそらく発動機の故障が致命傷となり、海上に不時着したのであろう、遂に帰還せず中山機長以下七名は戦死と認められた。
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