米第五入任務部隊(TF五八)は、四か空母群と五か戟艦群に分れて作戟中であり、一九日の午前六時少し過ぎ南西寄りの方向に進出し、レーダ1で西方から接近する日本機を一五〇浬(約二八〇粁)の距離で捕捉したのは一〇時頃であった。そして米機動部隊は、この日本軍機の遊撃とグアム島制圧のため、四五〇機の戟闘機、爆撃機全機を発艦させ、爆撃機はグアム島の滑走路を爆撃し、日本軍の攻撃隊を迎え撃ったのである。 西昇士中尉は、索敵隊一三機のうちの九七式艦攻隊小隊長)として、午前四竺五分、空母瑞鳳から発艦し、筑摩の水傾一機と共に前方第二段索敵を行なった。 この索敵隊は、敵駆逐艦と艦載機を発見しているが、かんじんの空母部隊を発見することのできないうちに、敵遊撃戟闘機に阻止され、西中尉機を含む六機が行方不明となり、表が不時着水沈没した。 西中尉の最期を確認したという資料は見当らないが、敵と交戟時被弾し自爆したと考えられる。 第一次攻撃隊の戦爆四三機(岩野正、古沢英一中尉参加)、天山艦攻七機(志賀素良中尉参加・生還)、零撃四機(大坪次男中尉参加)は、午前七時二五分にそれぞれの母艦から発進して、攻撃目標に向った。 高度六千米で編隊進撃中の九時三五分ごろ、グラマン戦闘機の奇襲を受け、大坪中尉の属する直掩戟闘機隊がこれと交戟に入っている間に、攻撃隊の一部が空母群に向って突撃し、空母一隻、巡洋艦一隻に対し二五〇キロ爆弾各妄の命中を確認し、その他空母三隻に命中弾を与えたものと認められた。 空中戦に入った直掩隊は敵六機を撃墜したが、わが被害も大きく、戦爆三一機、天山二機、零戦八機が未帰遼となった。参加した期友搭乗員も志賀中尉を除き全員が行方不明となった。その自爆状況を確認された者はない。 この戦闘状況をモリソン戦史の記述により紹介すると次のとおりである。この志賀中尉もその後連戦し二〇年三月二〇日沖縄作戦に参加散華することになる。 第一次攻撃隊は、零戦一六、爆装零戦四五、雷撃機(天山艦攻)八機からなり、八時三〇分先頭の三航戦空母から発艦した。この攻撃隊は、「リー」少将隊の戦艦部隊のレーダー網で一〇時に一五〇浬以上の距離に捕捉された。 敵が空母レキシントンから一一〇浬に近接した時、各艦は戦闘配置に就いた。遊撃戟闘機の発艦は、一〇時二三分に開始され、その時敵機は七二浬に近寄っていた。その時日本隊は、高度二万呪で施回運動を始め攻撃隊形を作っていた。この一〇〜一五分間の余裕は、米艦隊にとって天恵であり、この間に発艦準備、戟闘機は逝撃隊形をとることができた。この時、第一目標(注・第一次攻撃隊のことである)の六四機がレキシントンから六〇浬の距離に迫ったが、全艦の飛行発進は未だ完了していなかった. CAP(上空直衛戦闘機)は、高度一万七千〜二万フィートで密集隊形をとり、戦闘機一六機が上空と後方に占位した。これに対しエセックスの戦闘機一一機が攻撃に向った。 プレワー少佐は、編隊指揮官でみり、敵第一次攻撃隊を目標として射撃せ開始して炎上させた。敵雷撃隊の燃え散る破片の中を通り抜け、高度を上げて次の目標を攻撃した。敵機は、炎上しながら海中に投入し大破片が飛び散った。次に高度をとり敵戦闘機を捕、えこれを撃墜した。次の瞬間、敵戦闘機が彼に向って降下してくるのを認め、その後尾に廻り連続射撃した。敵は、その都度大角度急施回をして反転を試みた。(この敵も火を吹き海中に墜落、また彼の部下ファウラー少尉は零戟四機を撃墜した) 戦闘機四機を率いた第二小隊長カー予備中尉はプレワ一に協力して敵の上方に出て側面から攻撃した。最初に攻撃した雷撃機はたちまち爆発炎上した。カーは、飛散する破片を避けながら急上昇をして、第二の雷撃機をころあいの所で見つけた。敵機は、炎上し施回しながら再び帰れざる墓場に投入して行った。カーは、その時零戦一機が彼の後方に迫るのを認め、垂直降下を行ない速度計が四三〇ノットを示す速力で下降し、右施回で起き直り敵を振り切った。同時に彼の列機とも離れた。交戦に 適する高度にもどったところでカーは附近に僚機を見なかったが、敵雷撃機が一機全速で接近するのを認め命中弾を与えこれを爆発させた。高度を高めたところ、雷撃機が更に二機前面にあって約二千呪上空を平行針路で進むのを発見した。その一機に対し後方から攻撃を加え爆破させた(この敵機に追加攻撃し撃墜させ他の一機はとり逃した)。カーが高度を回復した頃、視界内には敵機は一機もなかったので、エセックスへの帰途についた。途中敵機の墜落によってできた海面の波紋や油紋を計算したが一七でやめた。 プレワーは帰艦後、敵機は組織的防御法を知らないように思われると報告した。雷撃機は、大部分四散して自ら被害を受け易くしたし、戦闘機は雷撃機を援護する様子もな〈、米戦闘機(ヘルキャット)を逃れるため各機別々にさまざまに運動を行なった。 第一次攻撃の六九機の日本機の内四二機帰還せず、少なくとも二五機は遊撃隊に撃墜された。この戦果は他の空母戦関機の分も含まれている。 この戦闘は、非常な高度で行なわれ、はるか遠距離にあった戦艦部隊の後衛駆逐艦から《梅の如く落ちてくる》飛行機を見物できた。残存機約四〇機は、ヘルキャットを脱過し目標に向い前進を続けた。しかし、他の戦闘機群に攻撃され、更に約一六機が撃破された。数機か或いは単機で、或いは二、三機で戦艦部隊の西方にあった後衛駆逐艦ヤーンオール号とストックハム号とを攻撃した。防空砲火が有効であったため駆逐艦には被害はなかった。 爆撃機(注・爆薬零戦である三、四機が戦艦陣列に突入してきた。そこで遊撃隊形を直径六浬の輪形陣に変更した。一〇時四九分爆撃機一機がサウスダコタ号に直撃弾を命中させた。これはこの日の戦闘でのただ一つの直撃弾であった。爆発により戦死二七名、負傷二三名を出したが、・戦闘航海に支障はなかった。他の一機はミネアポリス号に至近弾を与えた。第一次攻撃隊は一機も空母部隊へ取りつくことができなかった。空母の飛行甲板からは攻撃隊の一部が望見されたのであるが。そして一〇時五七分旗艦レキシントン号は敵第一次攻撃隊が完全に撃墜されたと報告を受けた。
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