(戦況) 中部太平洋方面で戦勢急を告げている時、硫黄島には横須賀航空隊(横空と略す)を主力とした特別編制の八幡空襲部隊が進出し、同方面からサイパンの作戦に従事していた。マリアナ沖海戦が終了した直後の六月二四日、硫黄島は、前日来の豪雨のため予定されていた日施哨戒機の発進ができないほどであった。しかし、朝の六時ごろから天候は漸次回復に向いつつあった。 この八幡部隊には横空の斉藤史郎中尉が艦爆の偵察員として参加していた。期会誌の記事によると《七十一期はつれていかなかったと先輩パイロットが言っている》となっている。また期会名簿では六月二五日戦死となっているが終戦直後記録された鈴木(石坂)光雄の資料による斉藤史郎中尉の最期は、《二四日、〇七〇〇から一〇〇〇の間、敵機動部隊攻撃に出撃、敵戦闘機か又は地上砲火で撃墜されたのであろうか、末帰還》となっている。 二五日か二四日か日附に違いがあるが、敵の来襲は二四日であることから、鈴木資料及び現在する「八幡部隊の戦闘詳報」をもとに斉藤中尉の最期は二四日と判断する。 二三日の早朝、敵の機動部隊の空母四隻は、硫黄島の南東二三五浬に接近していた。前述のとおり折柄の悪天候で哨戒機の発進を見合わせていた所在の八幡部隊は、基地の電探(レーダー)が探知し た来襲機群に対して、直ちに(六時五五分)可動全機を発進させて、この敵機の逝撃、空母群への索敵攻撃を命じ、そして大型機は空中退避に入った。 わが航空機が発進していた最中、敵戦闘機五一機が上空に到着し、彼我の航空機は空中戦に入った。敵は、この第一波をもって攻撃企図を放棄した模様で、避退を始めた。 索敵攻撃に向った攻撃隊は、ウラカス島東方まで敵を迫撃したが、末帰還機多数のために戦果を確認することができず、わが方の損失は約八〇機に及んだ。特に艦爆、艦攻の被害が大きく、斉藤中尉機も帰還しなかった。 午後になって更に敵の攻撃に進撃した。.斉藤中尉の参加した午前中の状況を米資料により次に紹介する−内五一機よりなる戦闘機は、午前八時一五分、行程の中央で日本機と遭遇した。米戦闘機は、直ちに爆弾を投棄し、密集隊形を作り大規模な空中戦闘が始まった。その結果日本機は戦闘機二四機、急降下爆撃機五機を撃墜され、米軍は六機を失った》 横空の別動進撃した艦爆八機中、《基地附近にて空戦、未帰還五機》とその「戦闘詳報」に記録されている。
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