(戦況) 六月一九日の航空決戦が終了した後、残り少なくなった所在の航空部隊は大部分がペリリユー島に後退し、マリアナの残り基地を夜間便用して、サイパン方面の敵輸送路の速断、敵基地の使用封止や陸上で死闘を続ける味方守備隊への協力を月的とするゲリラ的作戦を開始した。 サイパン島への攻撃は、硫黄島からも行なわれており、銀河隊の深谷細筆中尉も参加、アスリート飛行場に全弾命中させ帰還したと記録に残っている。 「あ」号作戦の緊迫した時期に、基地航空部隊の索敵能力を増強するため南西方面艦隊の所属部隊からパラオ島に進出し、同地の基地航空部隊に編入されて、索敵に当った二機の二式飛行艇があり、その一機の機長が末書作之助中尉であったことは既に述べた。 決戟終了した後、二二日にも敵の機動部隊をもとめてこの二機が出撃、末書機は午前五時二〇分発進して、九時二五分に同島の三〇度五四〇浬において敵空母を含む機動部隊を発見しこれに触接した。四度にわたり敵情を報告してきたが、敵機の追跡も激しかったであろう、炎一二八、敵大型機見ユ》の電報を発したまま連絡を絶ってしまった。おそらくこの大型機によって撃墜され、機長以下一〇名の搭乗員は機と運命を共にしたのであろう。遂に帰還せず、同日附で戦死と認められた。同行していた僚機も行方不明となったと記録されている。 末吉中尉が南西方面にあった時、「八五一空戦闘詳報」の記録で明らかであるが、文字どおり東奔西走し、船団護衛に人員物件の輸送に従事していた。その行動範囲は、昭南(シンガポール)を中心として、スラバヤ、ポートブレア(ベンガル湾のアンダマン諸島)、パリックパパン、サイゴン、ダパオ等の各方面に及んでいる。 二三日、グアム島に米軍の戟爆約七〇機が来襲して、わが零戟二二機が激撃しその五機を失った。また、天山艦攻一機が輸送船を、戦爆一〇機が敵機動部隊をそれぞれ攻撃し、末帰還二機を出した、と公刊戦史叢書「マリアナ沖海戦」版に記録されている。 米満尚美中尉機であることは肥田真幸氏(六十七期)著の「中部太平洋に転戟」に明らかであり、その最期はまことに悲壮としか形容する言葉を知らない。 グアム島は、日出から日没まで間断なく敵城関機が来襲する。第一航空艦隊の生き残りの零戟隊が五か飛行隊(虎、狼、嵐、光等)もあるが、保有機は各飛行隊せいぜい四〜五機の合計二〇機程度である。 戦闘機隊は、先任隊長指宿少佐〓ハ十五期、戦後海上自衛隊に入隊後、航空自衛隊創設の際転官、ジェットパイロットとして活躍中殉職した)である。連日の戦闘で搭乗員もへとへとに疲れ果ててしまっている。 六月二三日午後、例によって第三回目の来襲も間近い、「遊撃戦闘機発進用意、搭乗員用意」 の号令が発せられたが、下士官兵は一人も集合しない。全員衰弱しきっているのだ。無理もない。 折椅子に座っておられた指宿少佐の顔が引き締り、目が血走っている。〈肥田君、海兵出身者だけでやろう。すぐ集めてくれ〉と。集まる者七人、鹿児島出身の若い中尉が最年少である。(この若い中尉は米満尚美であり、彼は重傷の身を整備員の手を借りようやく身を愛機に運び発進した)。 戟闘機隊は、サイパン島のアスリート飛行場に銃撃を加え、地上機多数を炎上させ戦果大であったが、若い中尉ただ一機遂に帰らなかった。 以上が苦労を共にして戦って来られた先輩が語る米満中尉の最期であり、連戦のうえ戦傷の身をおしての出撃であり、その心情を察するとき涙なきを得ない。我々の同期生の最期は、その一人一人が米満中尉に代表されるように実にりっばであったという。
|