八月三一日、ミンダナオ島のダパオ地区にP38三機が飛来偵察して去った。それは散大型機来襲の前ぶれと判断されたが、果せるかな月もあらたまった九月の一、二日に 当時、ダパオ所在の二五三空は、夜戦六機とわずかな偵察機を保有していたに過ぎず、迎撃能力は既に皆無に近く、敵の来攻に対しては専ら地上砲火が頼みであった。 この地区にいた期友は、二且三空(偵一〇二)の坂室幸雄中尉及び二〇三空(戦三一一)の今若勝男中尉で、両期友も七月一〇日附の発令であり、部下を率い遠路飛来21したばかりの時期であった。
今若勝男中尉は、ダパオ東方のラサン基地に配置され、日夜哨戒に、また対潜直衛に当っており、それと併行して来るべき敵来攻の予想正面の第一線兵力として錬成に努めていた。 八月八日の午前一〇時、零戟で基地を発進し、編隊を組むための集合行動中、列機に追突されて墜落、戦死した。基地発進五分後のできごとであった。当時この地は正に祖国防衛の第一線であり、戟局の緊迫化とともに烈々たる闘魂を燃やして作戦に従事したであろうに、不測の事故により敵との交戦によらず空に散った彼の無念さは察して余りがある。
今若中尉が戦死した一か月後の九月九日の南部比島は、午前七蒔から終日にわたって、延約四〇〇機の奇襲を受け、ダパオ地区は大きな損害を被った。この来襲機の母艦群の全ばうが判明したのはその日の午後四時二〇分ごろであり、二か群の空母群が発見されたのであったが、兵力不足のため反撃することはできなかった。 在比の各部隊は、かねてから敵釆攻を予想し、東方海面の哨戒を厳重にしていたが、六日の午後に西カロリン方面が敵機動部隊の空襲を受けたので、その翌日(七日)から一層哨戒を増強している。マニラ哨区の哨戒線は、その進出距離を延ばして六五〇浬とし、新にタクロバン(レイテ島東岸)を基地とする近距離哨区を設定した。 新しく設けられたこのタクロバン哨区は、七〇度から一一〇度の間、進出距離三五〇浬、使用兵力三機であった。一五三空の偵察第一〇二飛行隊からもこの哨区に兵力が派出されており確認はないが坂室中尉もこのタクロバンに進出、哨戒に当っていたものと考えられる。 坂室中尉は、一〇日朝八時ごろ彗星型陸上偵察機に搭乗して九日午後発見された敵機動部隊の索敵に向ったが、そのまま消息を絶ち未帰還となった。おそらく敵遊撃戦闘機に奇襲されたのであろうが、その最期はつまびらかでない。後述する佐川潔中尉も坂室中尉と同じ飛行隊勤務であったので相前後してこの地に進出していたであろうが、その確認は得られていない。
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