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米機動部隊の南西諸島奇襲 
(偵察第三飛行隊) 岩石博明


海軍大尉 岩石博明の戦歴

扶桑 木曾 40期飛行学生 偵察第4飛行隊 偵三
一九年一〇月一〇日 二一才
広島県立呉一中学校
父小一 母テイコ
第五二分隊の伍長 体操体育係

  (戦況)
 
 九月末の通信情報により、それまで比島方面を行動したが、そ蒜にはその存在が確認されず、またパラオ方面の敵部隊に関する情報も絶えたので、情報部は敵機動部隊の所在をつきとめるのに苦慮していた。

 一〇月四日の通信情報とロ号46潜の偵察によって、中部太平洋のウルシー泊地が既に米艦隊の基地として使用され始めたことが確認された。その後、米機動部隊が出動したらしい兆候が認められ、それと前後して南西諸島方面に敵の飛行偵察が頻警なつてきたが、その消息を確かめる手がかりを得られないでいるうちに、九日の払暁、南鳥島が突如敵水上部隊の艦砲射撃を受け、更に鹿屋発進の哨戒機が都井岬の一四〇度四五〇浬附近で消息を絶ったという報告が入った。
 
 日吉の司令部ではこれらの情報を受信しながら、その日の昼頃までは切迫したものを感じていなかったが、夕刻この哨戒機の末帰還が確認されるに及んで事の芙さを感じ始めた。そして《一〇日の黎明には九州及び南西諸島に敵来襲の算あり》と判断して、各部隊に警戒を命じ遊撃態勢を整えさせた。
 サイパンからのB24が日本哨戒艇を撃沈し、日本哨戒機の活動を封じている間に、ウルシー泊地から六日出撃した米機動部隊は、おりから日本に近接中の台風を利用しっつ、わが軍に発見されることなく九日夜沖縄に接近して、一〇日に北は奄美大島から、南は宮古島に至る三〇〇浬の弧に沿い、航空攻撃を加えて一旦南下した。そして一三、四日には台湾を強襲した。

 聯合艦隊司令部は、沖縄への来襲により、基地航空部隊に対し《捷二号及び二号作戦警戒》を令し、敵の行動の全貌把握に努める一方、《北東方面にあった一二航艦に対し九州基地進出準備》と《空母飛行隊の陸上基地作戦に転用準備》を命じている。

 一〇日米機動部隊が突如南西諸島方面に出現して、艦載機延四〇〇機が四回次に分れて、各島を奇襲した。沖縄方面にあっては、所在の飛行機が焼かれ、在泊中であった迅鯨(潜水母艦)ほか二一隻の艦艇が沈没、船舶六隻が沈没又は大破するという甚大な損害を受けると共に那覇市が灰燈に帰した。
 
岩石博明中尉の最期

 偵三の岩石博明中尉は、この日の早朝、この事を知らず空襲の始まる三〇分前に沖縄の小禄飛行場から飛び立ち午前六時沖純西方約一五〇埋を台湾に向け南下中の重要船団の直衛に当っていた。
 
 沖縄所在の司令部は、八日以来実施していた警戒をこの日になって若干緩和しており、岩石中尉機も僚機もまさか敵の襲撃があるとは思ってもいなかったであろう。

 護衛任務を終了した岩石機が帰途に就き一〇時過ぎ飛行場に近接していた時、来襲の敵に奇襲され、交戟に入つたがまもなく被弾、火災が発生し、一〇時二七分に飛行場中部に墜落、戦死した。転瞬の間のことであったという。

付記

 
管理人・佐藤清夫は、リンガ泊地で9月25日駆逐艦野分を退艦、航空便でシンガポール(昭南)→サイゴン→海南島→香港→台湾の台北基地着。帰国便を探し待機中のこの日(10日)早朝、中攻機に便乗し沖縄経由、鹿屋基地に向かった。南西諸島を航行中に機長から沖縄地方に敵艦載機群の空襲が行われているらしいと知らされた。幸い無事に鹿屋に帰着して事なきを得た。
 戦後しったことである。1号時代の同じ分隊(52分隊)の伍長であった岩石博明中尉が上記の様な最期を遂げていたことを当時は知る由もなかった。

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