八月三一日、小笠原諸島が奇襲され、硫黄島にもこの日午後二時から約二時間にわたり雄二八〇機の敵機が来襲した。 この硫黄島には七月二八日から戦八五一が派遣されていたが、数野正幸中尉は同隊附で夜間戦闘機の偵察員であった。このころ零戦の津曲正海も同じくこの島に配備されていたが、飛行隊が異なるため二人はこの島に来て以来逢っていなかったという。 二〇日と三一日はものすごい空襲でとても外など歩けない、状況であり、既刊の期会誌を総合すると、数野中尉は三〇日やられ海上に不時着した。 (公刊戦史によるとこの日には空襲はなかったはずである)、 三一日午後二時三五分、地上において被弾戦死》したと推定される。 いずれにしても猛烈な空襲下であり、津曲の言では、飛行場が異なっていたので、彼の戦死は分隊長から聞いたことである。 厚生省援護局の戦死者原簿を閲覧したところでは、「戦八一五附トシテ、一九年七月二八日ヨリ硫黄島に派遣中、八月三二日一四三五敵機来襲、地上戦死、帰還骨ハ呉ニテ焼失」 となっている。 まったくの奇襲であり、遊撃に間に合わなかったのか、あるいは遊撃中弾を撃ちつくして補給のため着陸した時であろうか、その詳しいことを知るすべはない。 |