(戦況) 航空部隊に加、ろて水上部隊をも投入して徹底的な戦果を拡充する好機と判断した日吉司令部は、一四日になって志摩中将の指揮する第二遊撃部隊(以下志摩部隊という)に対して、準備でき次第出撃し、敵損傷艦を捕捉撃滅し兼ねて攻撃中不時着水する搭乗員を救出することを命じた。この部隊については後述するところであるが、参加した艦に乗艦していたのは、柴正文(那智)、荒井正人(足柄)、寺部甲子男(若葉)、森谷尚幸(初春)、伊吹寿雄(霞)、中島正俊(不知火)の面々であった。 一四日夜半には、苦らん鼻の東方一二〇〜二〇〇浬の海面を南南東に移動している敵部隊をT攻撃部隊の索敵機二式大艇のレーダーが探知し、一五日になって別な索敵機によってこれが敗走中の敵損傷艦に間違いないことが確認されている。 一四日に大幅な航空機の増勢を得た台湾の各航空隊は、明けて一五日に避退中の敵機動部隊をもとめて攻撃隊が台湾の各基地から離陸して行き、これに呼応して沖縄基地に進出していた航空隊及び雌島所在の二六航戦も出撃した。 台湾に増強された部隊は、一四日国分基地などを発進し台湾東方の敵機動部隊攻撃に向ったが、途中敵部隊を発見することができず、かえって書の中に待伏せしていた敵遊撃戦闘機に奇襲され、多くの犠牲を出して台湾の基地にばらばらにたどりついた飛行隊であり、その中には国分道明、津曲正海など初陣の若武者がいた。 この日の攻撃も連日の作戦で出撃機数は減り、その上追撃に急なあまり各隊が個々に行動することとなり、更には天候に災いされて、大部分が敵を発見することができず、敵附近まで進撃した一部も敵戦闘機に阻止された。 在比の部隊も出撃し相当の戦果を挙げたと報告されているがこの部隊に期友が参加していたかどうか不詳である。第二次攻撃に自ら陣頭指揮した二六航戦司令官の有馬少将が敵艦に突入、戦死したのはこの時のことである。
攻四〇五の永田慶十三中尉は、銀河に搭乗し、この日(一五日)も第一次攻撃隊に属し、僚機(銀河一〇機と零戦九機)と共に午前六時四五分高雄基地を発進した。 この攻撃隊は、目ぎす敵損傷艦に近接中の九時一〇分、敵戦闘機八機の奇襲を受けたので直ちに編隊を解き交戦に入ったが、零戦一機と銀河一機が脱出したほかは全機未帰還となってしまった。したがって、永田機の最期も確認されていない。午後四時二五分に第二次攻撃隊が続いて出撃したが、指揮官機の故障で攻撃を中止し、全機が引揚げた。 前述の日向中尉はこの攻撃隊に参加し、未帰還となっているが、一四日には敵を発見攻撃して帰還した彼のこの日の状況は全く不明である。 戦三一二と二〇一空の零戦一六機、攻七〇八と攻七〇三の一式陸攻五機そして戦八〇四加釆哲哉中尉の月光夜間戦聞機の総計二二機もこの日九時五五分新竹基地を発進した。 この攻撃隊は、間もなく零戦八機の多数機が発動機不調で脱落したが、本隊は進撃を続けていった。途中更に七機が天候不良のためきびすを返した。残り少なくなった攻撃隊がなおも進撃を続けて、予想の六〇浬手前に達した時、敵戦闘機約一五機の七編隊を解いて交戦に入った。
この敵を振り切った攻撃隊は、その後目標を発見できず午後五時基地に帰投したが、交戦時零戦一機の自爆を認めたほか陸攻二機、零戦一機と加来中尉機(月光)が末帰還となっている。 加来中尉の最期を確認したという資料はない。またこの日出撃した本下直輝中尉の出撃については公刊戦史にその資料を発見することができないが、本下中尉と同じ戦闘機隊で国分基地から共に発進した国分道明はその時の状況を次のように回想する。
本下直輝中尉は、一四日台南基地に転進していた。国分道明は台東基地であったので、翌一五日早朝、本隊に合同するため、負傷した部下の零戦に乗って台南に進出したが、その時には既に本下中尉は、直掩として出撃しており、会うことができなく、そのまま帰らなかったという。この国分道明も残りの隊と共に比島に進出し作戦中、ジャングルに不時着負傷し内地に送還されている。 連日の作戦で各基地にばらばらになってしまった二航艦の各飛行隊を次期作戦に使いやすいように集めることになった。それに伴って南九州に残留した基地要員とその物件を台湾の基隆に輸送するため巡洋艦鹿島(この作戦後旦尚節夫が乗艦) が海上輸送に充当された。 今までに各部隊から報告されてきた戦果をそのまま信じて、わが航空部隊と米機動部隊の世紀の戦いが正に最高潮に達し、いま一息で敵を繊滅できると楽観ムードに支配されていた各上級司令部にもたらされた、炎一五日夜に発見された敵有力部隊の報告》は、これらの司令部に事態が危機に直面しているとの情勢判断を強いた。 一六日未明に東港基地(台湾南部)を発進した九〇}空250の九七式飛行艇一機が鷲らん鼻の東方 の海域に三か群と、更に敗走中の敵艦の二か群を発見し報告してきた。 七〇〜三〇〇浬一部と思われるこの新に発見された敵は、避退する損傷艦とそれを援護する重巡部隊であった。この攻撃を担当したのは、台湾所在の甲攻撃部隊の一部であり、そして新竹と鹿屋、 比島の各地から出撃した乙部隊である。乙部隊は敵を発見することができず帰投した。
甲部隊には、攻二五六の池中勇中尉(天山艦攻)が雷撃隊として、そして戦三二七の徳永喜邦中尉が直掩隊として参加していた。一六日の正午少し前、銀河八機、天山艦攻一八機の攻撃隊と直掩零戦が、台南基地を発進した。 約二時間進撃したころ、鷲らん鼻の一三五度三二〇浬の海域で敵グラマン戦闘機三〇機の待ち受けにあった。零戦隊が交戦その四機を撃墜している間に、雷撃隊は進撃を続けていったが、末帰還機多数でその攻撃状況を知る資料はない。しかし、空戦後、敵を発見した帰還零戦搭乗月の視認したところによると、空母らしいもの一隻が炎上しその周囲を駆逐艦が旋回しており、戦艦叫隻が停止し撃破されている模様であったという。 この攻撃で銀河八機中七機、天山艦攻一八機中池中中尉機を含む一四機、そして徳永中尉機を含む零戦三〇機が未帰還となった。
直掩隊の徳永中尉は、同じ飛行隊所属の津曲正海や前出戦三一六の本下中尉、国分道明などと共に洲ノ崎基地(千葉県)から洗面袋と着換えだけを持って一二日笠ノ原基地に進出したところ、翌一三日出勅命令が下り、沖縄経由で作戦した後その足で台湾に転進した。徳永中尉は、本隊と共に台南に着陸したが、津曲正海は台中に降りたという。津曲正海が台中基地から台南に飛び本隊に合同 したのは、徳永機など攻撃隊が出動した後であったので、徳永機などの出撃状況を見ていない。出撃していった徳永機は燃料増槽が不具合で、燃料吸入状況が悪かったということから、途中の空戦では十分な戦闘力を発揮することができなかったのではなかろうかと考、えられる。 池中中尉が所属した銀河、天山艦攻よりなる雷撃隊が捕捉した敵部隊は、やはり低速避退中の損傷部隊であり軽空母三隻を伴っていた。この空母から発進した戦闘機によって雷撃隊は大きな被害を受けたが、更に強力な対空砲火の弾幕をも突破した三機の雷撃機が攻撃を敢行し て、軽巡ヒューストンに一四日に次いで再度の損傷を負わせたのである。《この軽巡を雷撃したのは一機の銀河b醐‥b附約gい欄f刑欠g鵬…ig摘 堕された》 のである。 直掩戦闘機の見た戦艦がこのヒューストン号であったと思われる。サンタフェ号に突入し撃墜された天山艦攻がだれであったか不詳であるが、この隊が果敢な攻撃を行ない戦果を挙げたことは確実である。 この日出動しなかった津曲正海は、その後国分などと共に比島に進出したが、補心 の受け取りに内地に帰っている間に比島には帰れなくなったと聞く。津曲・国分のほか、高橋武治、高橋進、山田良市、田中公夫、西尾漸などは、後述するように比島戟線で苦戦を繰り返えしつつも武運強く生残った数少ない期友である。戦一六七の鈴木光雄は岩国から徳島・鹿屋経由で沖縄に進出し、台湾沖航空戟及びフィリピン沖航空戦に参加した。そして一一月中旬にB24を迎撃中左腕を骨折したという。
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