(戦況) 一〇日夜から一二日の未明にかけて行なわれた飛行艇による索敵で敵の全貌がようやく明らかになり、釆攻の敵機動部隊は、四か群からなると判断されるに至った。 この敵機動部隊は、第三八任務部隊であった。一一日の午前中に燃料を補充した後、その第一任務群と第四任務群が三時半にルソン島のエンガノ及びアパリ方面を攻撃するために六一機の攻撃機を発進させた。この間、上空直衛に当っていたCAP(キャップ)が偵察に近寄って釆た日本陸攻機三機を撃墜している。 午後に護衛空母から六一機の補充機を受けた部隊は、台湾を奇襲するために目標が比島にあるとみせかける進路をとり、夜間に入ると同時に針路を台湾に向け、増速して攻撃のための飛行機発進地点に向った。 明けて一二日の夜明け前、台湾の東方五〇〜八〇浬に達し、日出一時間前に最初の攻撃隊である戦闘機掃討隊を発艦させた。続いて合計三七八機を下らない飛行機恨り、が全空母を発艦している。 第二任務群(TG三八・二)が台湾の北部地区、第三任務群(TG三八・三)が中部地区、第一任務群が南部地区そして第四任務群(TG三八・空が高雄地区をそれぞれ担当し数回次にわたって所在の航空兵力と地上施設を攻撃したのである。台湾全島は、午前六時四八分以降終日空襲下におかれた。我が第二航空艦隊(二航艦)と所在の航空隊の戟闘機約一二〇機が遊撃に当ったが、この戦闘で四八 機を失っている。
午前七時二〇分、上空哨戒中であった大月陽三郎中尉が所属する戦三一二の零戦四機が米Mと叩戦闘機計二〇機を発見して、これと交戦に入った。これとほとんど同時に他の零戟隊(三三機)も米戦爆連合的五〇機と交戦し、新竹から桃園に至る空域にわたって彼我の間に凄惨な死闘が繰り広げられた。この戦闘で不確実七機を含み二四機の敵機を撃墜したが、わが方も自爆一二機、未帰還二機を出し、落下傘で二名が降下している。 続いて来襲した第二次攻撃時にも、自爆二機と未帰還二機、落下傘降下一名を出した。大月陽三郎中尉機.は、午後一時五〇分、《自爆》と認められているが、その詳しい状況は明らかでない。この時目黒佳啓が大月中尉と同じ飛行隊で、渡辺清規が台南空でそれぞれ遊撃に当っていた。
同じ日午前七時一三分台南基地を発進した台南空と高雄空の零戦二五機及び上空哨戒中であった一三機が基地上空で優位の位置にいた敵グラマン戦闘機三〜四〇機と七時二〇分空戦に入った。この戦闘で不確実三機を含む一〇機を撃墜したが、我が方も高雄空の内藤良雄中尉機を含む自爆、未帰還合計一七機の犠牲を出した。内藤中尉の最期の状況もまた明らかな記録が残っていない。 午後四時三〇分にも零戦一〇機が発進したが、交戦するに至らなかった。この時期内藤中尉と同じ高雄航空隊に後藤甲子夫と青木進の雨期友が所属していたので、共に遊撃戦闘に参加したであろうが、後藤大尉(当時)が二〇年一月硫黄島で遊撃中自爆、青木大尉(当時)もこの年の一二月比島で特攻突入しているので、詳しい状況を聞くすべもない。増田洪志は進出の前日マラリヤを発病して取り止めとなったという。
この日の敵の重点目標は高雄地区基地であり、攻撃もこの地に集中された。高雄基地に配備された戦四〇一の紫電戦闘機隊に若林重美、染谷甲、増田洪志の三中尉が所属していた。 午前七時、上空待機中の七機が、二か群に分れて来襲した敵の戦爆連合約六〇機を発見、優位の位置から空中戦を挑んだ。地上待機中の若林中尉を含む紫電二三機と零戦一機が七時一五分発進したが、集合を終る前に敵機の攻撃を受けてしまった。第二次来襲以後はこの戦訓にょり四機程度がまとまるごとにその都度発進し遊撃に当ることにされた。 この日の遊撃戦の戦果一〇機であったが、わが損失もー四機にのぼり、若林中尉も壮烈な戦死を遂げた。その後この隊も比島に進出、染谷中尉が現地で戦死している。
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